こんにちわ ゆうじです。

 

カントの話の続きです。

 

(青字はちょっとつまみ食い的に若干要約して引用しています。)

 

共有可能な答え、具体的な観察や記録に基づく合理的な推論が出来る範囲を超えて、際限のない推論をしてしまう純粋理性が暴走してしまうと答えの出ない問いまで行ってしまう。

この純粋理性が求める究極の真理の一つ「魂の不死」の問題があります。

 

カントは、これをどう料理したのでしょうか?

「われ思う、ゆえに我あり」のデカルトさんも、肉体はなくとも魂は自律的に存在しうると主張しました。心は非物質的で、不滅のもので、時間の流れに関わらず常に同一であるとしました

が、これをカントは、誤った推論と一刀両断にします。

 

でも、結論は、答えが出ませんなのです。

 

カントの認識論では、人間は「空間」と「時間」の枠組みで捉えられるもので、「こころ」は自分の感覚として認識する対象です。この「こころ」のおおもとに「魂」を想定し、肉体が死んで消えても存在するものを認識することは、「空間」と「時間」を超えるものなので認識できませんという理屈で、「ある」も「ない」も答えは出ないよ。という結論です。

 

先に上げた純粋理性が求める究極真理「世界の根源にあるものとか、世界の始まりとか、世界の果てとか?魂は不死なのか?神は存在するのか?」の世界の始まりや世界の果てという議論は、今日では科学的に解明する分野に移行しています。いまや科学という概念を通して解明されるものになっています。量子力学が進めば解明されるのかもしれませんね。でもそれは、現代の話。

 

ちなみにカントは、この不毛な議論を止めさせて、哲学で何を議論すべきかという点で、人間に役に立つ道徳法則に話が移っていきます。この道徳論が、ちょっと行き過ぎていて、後年ニーチェ先生から「ちょっと、どうかしてる」的な扱いをうけてるみたいです。

 

この道徳論で出てくる実践理性の方は、一般に云う道徳的な理性になります。

 

カントは、「神はいるか/いないか」という問いの答えは無いと一刀両断にしながらも、

「なぜ人間は神の存在を問い続けてきたのか?」と人間が生きる観点から問い直します。

さらにカントは、「魂の不死」さえも信じることが必要と云いだします。それは死後の救済のためではなく、死後も道徳的な存在として完成のため死後も修練しなさいが結論の様です。

 

なんと云うか清々しい位に、どうかしてるぜ...

 

ではでは、このへんで