こんにちわ ゆうじです。

 

あまりにも大仰なタイトルになってしまいました。

そもそも、「コペルニクス的転回」の意味を知ったことがきっかけです。(素人なので間違いご容赦ください)

「コペルニクス的転回」=旧来の天動説に対するコペルニクスの地動説のような大転換 っていうことは知ってましたが、カントの使った言葉としての意味を知ったのです。

 

高校の倫社の時に、カントは認識(主観)が対象(客観)に依存するという旧説に対し,対象(客観)こそ認識(主観)により構成されるとする自己の認識論上の転回を「コペルニクス的転回」と呼んだ。と習いました。

 

一番大事な下線部は、忘れてたというか、全く理解もできていませんでしたが、「コペルニクス的転回」=天動説に対する地動説のような大転換なんてきっと凄いんだね。と受験知識の片隅に残っておりました。

 

当時も、この話意味解らん。なんて思っていました。

 

先日、たまたま「100分de名著 純粋理性批判」を見たら、目からうろこが落ちる思いでした。


それは、ブルースの知覚者と解釈者に繋がる認識についての話が出発点でした。

 

上の下線は、とあるネット辞書のものですが、これでは良く解りません。

もう少し砕けたものとしては、こんなのがありました。

 

「これまでは『対象が認識より先に存在する』と考えられていたが、実際には『認識が対象より先に存在している』のである」…という考え方の変わりようを、先ほどのコペルニクスの例になぞらえて「コペルニクス的転回」と呼んでいる。

 

まだ、難しいです。これを解りやすく説明してました。


まず、カントは、物事の認識の説明において、「物自体」「現象」のふたつの言葉を定義しています。(本当は山のように定義があるみたい...)

まず認識する物そのものを「物自体」と定義します。

次に「現象」は、私たちの知覚や直観という認識能力によってとらえられた姿。

言い換えれば、私たちの認識能力によって変容されながらとらえられた姿

 

現象〉こそ客観的妥当性を主張しうる認識の対象であって、〈物自体〉は正当な認識の対象にはならない。ということを見つけます。

 

現象〉って、ブルースが云う解釈したものと同じなわけで何らかのフィルターを通した結果のものです。(経験の記憶との照合した結果でもあります。)

ブルースが云う、私たちの知覚した結果、解釈されたものは、結局ものそのものではありえない。という話と同じなんです。

 

下が膨らんだガラスの瓶(物自体)を、私たちは花瓶(現象)と認識しますが、花瓶という認識を持っているから花瓶だってわかるということでもあります。花瓶を知らない人には、下が膨らんだガラスの瓶でしかない。でも、瓶すら知らない人には...

 

私たちが認識した〈現象〉って、結局認識が先にあるんだという気づきによる考え方の変化が、太陽ではなく地球が回っているというくらいの変化なんだという話です。

 

「これまでは『対象が認識より先に存在する』と考えられていたが、実際には『認識が対象より先に存在している』のである」…という考え方の変わりようを、先ほどのコペルニクスの例になぞらえて「コペルニクス的転回」と呼んでいる。

 

カントは、ここから純粋理性とか悟性とかまた意味が分からん話になって形而上学的な論を進めていくのですが、まあそれは置いておくとして。

単純に、西洋思想でも、知覚と解釈について考えた人がいたのかと云うのが興味深かったのです。認識の話に絡む主観と客観の話は、量子力学にも通じる話でもあり、面白かったわけです。

 

ちなみにネットで拾ったこちらの大学生の資料を読ませて流用させていただきました。

純粋理性批判“超”入門

 

ではでは、このへんで