こんにちわ ゆうじです。
こないだの広島宮島旅行の後、ブルース・モーエンメソッドのレベル3をやった後で、軽いクラッシュのようでブログがおざなりになってました。
というのは、綺麗な言い訳で、本当は、そのあとレベル4の打ち合わせを兼ねて、担当トレーナ二人が千歳に来たので、打ち合わせして、その後、居酒屋行って、翌日、御一行様四人(二人増えてる)を千歳近辺をご案内したりした後、しばらくドラクエ11に夢中になっておりました。何年ぶりかにゲームに没頭しておりました。
何を書こうかなと考えていると、ブルース・モーエンメソッドのレベル3の飲み会での自分の発言が引っかかっておりますので、それを書きます。
経緯は、忘れてしまいましたが、うっかり酔っぱらって「本当に(すべてはっきりと)見えてる人はいるのかな?いないと思う。」と云ってしまいました。
受け取りようによっては、見えることの否定ですが、真意はちょっと異なる。ブルースの云う100%そのもの真実が見えることはないというのの違う言い回しと思ってもらいたいんです。
そして、見えるということの拘りが自分にもあるのに気づいた。
私は、個人的に見えるタイプではないのですが、ごくまれに見えることがあります。
ただ、この見えるものが期待したものではないことが多いようだ。ようだという曖昧さは、期待したものを見たことがないというより、映像の意味が分からないことが多いからだ。
それを眺めているうちにクリックアウト、もしくはマジ寝してしまうこともある。知覚者に意識を明け渡して、それを眺めるのだから、当たり前なんだけどね。たまに、知らないうちに知覚者優先のはずが解釈者暴走してたりする。
この見え方も、現実と見まごうほどの視覚は一度のみ体脱と勘違いしたやつ位だけど、夢をみているように瞼に写る映像は、何回かある。で、自分の場合、ヘミシンクで、これが起きやすい。映像見えると楽しいのだが、意味が分からないとストレスに感じたりする。ただ、見えるだけの映像。酷いのが、こたつの天板の定点映像。流石に、今は少ないが、映像がちらちらすると、それはそれで何か意味ある映像を期待をしてしまう。(これが問題なのかな?)
実は、それ以外にも見えるというのがある。脳裏に思い浮かべる。ように見るという方法です。これは、想像力を使って思い浮かべるのとも相性が良いと思う。メモを取りながら見ている人のほとんどは、これを使ってるんじゃなかろうか?
弱みは、解釈者の影響を受けやすいところかもしれない。もちろん、この方法で良いのは知覚者と解釈者のバランスを取りやすい点。
まあ、いろんな方法があるのかもしれない。白いスクリーンの上に見るとか、もう一つの体があるように見るとか個人差があるだろう。
あなたは、どんな風に見えますか?
ではでは、このへんで