私は終戦までローストビーフを知らずに育った。私の父親は、外国などへ行った経験がないのに、読書家独得の好奇心からか、妙に色々なものを好んだ。子供の頃を思い出してみると、父親は食いしん坊よりはディレッタントであることが先だって、あのようにエピキュールを気どったのではないかと思う時もある。自分の味わったことのない外国の味に酔って、講釈して聞かせることの好きな人であった。そんな人だったから、彼のささやかな範囲で、手に入れられる味があったし、押し入れを改造した酒倉が自慢の種だった。戦争がひどくなるまでは、子供の学校などにはあまり関係なく、気が向けば週日の夜でも妻子を連れ歩いて料理屋に行った。妻にはパンやクッキーを焼かせてみたり、硝石を使ってコーンドビーフを作らせてみたり……つまり外国かぶれの食生活の男だった。手伝いの少女たちにもいちいち小うるさかった。「おまえは何かくやしいと思うことはないのか? ある、それはよし。|山葵《わさび》をおろす時はそのくやしいことを思って、かっかとしながらおろしてくれ」
 一風変った家に育った私は、やはり少し常軌を逸脱しているのではないか、と思うほど食べ物に興味を集中できる人間に育ってしまった。過去の思い出の、喜びも悲しみも、食べ物をぬきにしては語れないのである。しかし、不思議なことに、エピキュールを自認していた父親からローストビーフを食べさせられた経験はなかった。
 昭和二十五年に、画家の石垣栄太郎と綾子夫人がアメリカから帰国してわが家の近くに居をかまえることになった。綾子夫人は論壇にデビューし、それからは、生活は“選手の交替”で料理は夫、栄太郎が受けもつようになった。当時最も進歩していたはずのアメリカの台所から、ガスもなければもちろんお湯などは出ない戦後の日本の台所へ、生活の文明を逆に歩いた石垣夫妻の苦しい時代であった。この家に入り浸っていた私は、生活というものが夫婦共同の作業であることを知るようになった。妻の仕事、夫の仕事と決めてしまわずに、家計さえもどちらかその時によりよい効率を上げられる方が支える。
「綾子は同じことを書いても、ぼくよりは筆がたつし、それに早い。夫婦だから、どちらが書こうが、時代に対して言いたいことは同じなんだ。しばらくは綾子に働いてもらってぼくが家のことをしようと思っておる」
 栄太郎の言葉は何の屈託もなかった。夕方学校の帰りなどに、犬を連れ、ソフトをかぶって買物に歩くこの人の、ゆったりとして動ぜぬ姿をよく見かけたものだった。大きな、実に大らかな人柄だった。
 ある日その大きな、大らかな人柄の石垣栄太郎が、私たち親子がそれまで見たことのない、堂々たるリブ・ローストを焼いた。それも石炭ストーブの上にのせた原始的な天火で。
「アメリカ人は料理を食うのではなくて栄養を食う、といつか栄太郎さんは言われたが、これはどちらのカテゴリーなのですかな?」
 好奇心のかたまりのような私の父は、はじめて出会った「アメリカの家庭の味」にショックを受けたらしい。書物好きの父の頭の中には、明らかに「アメリカの味」はこれくらい、というあて推量の味の基準があったのである。それがこの日、この家に一歩足を踏み入れたとたんに、にんにくと良質の牛の脂身が共に焼ける時にかもし出す、えも言われぬ芳香に圧倒されて、崩れはじめたのだった。
「これも栄養の方でしょうね。料理というほど手のかかるものじゃない。彼らは日頃ほんとうに簡単な、手のかからぬ物ばかり食べておるが、日曜日に教会へ行った後とか土曜の夜、客を招いた時とかには、少しご馳走めいたものを作るんだな。それが大抵ローストと何かなんだ。ローストはビーフ、チキン、それから、ポークはあまり一般的でないが。ビーフはもっと堅い、安いところはポット・ローストにする。それがめんどうな料理よりは意外においしい。堅い肉の大きな塊りを大きな厚手の鍋に入れて、長時間むし焼きにするだけだが……」
 おいしい物を外で食べてくると、微に入り細に入り説明したあげく、食べてはいない相手に味の再現をねだる父であったが、そんな夫をもった私の母も負けてはいなかった。綾子夫人のグリーンサラダの、香りはすれども姿の見えぬにんにくが印象的だったらしい。何とかこの、ピリッとした味と香りだけを移して正体を食べぬ方法を鰹のたたきにも使いたいが、どうするのかしら、と言ってみたり、リブ・ローストのにんにくも姿は見えないけれど、おろしてなするのでしょうか、などと質問を繰り返すのだった。肉の味のしみこんだじゃがいもと人参も、こういうのはどこの料理屋でも食べたことのないおいしい味だ、と母も父の先に出る。「こういうのが西洋の家庭の味、というのでしょうね」