かの大女優の秘蔵映像や、関係者のインタビューを交えた、ドキュメンタリー風伝記である。華やかで明るく元気な印象の裏に潜む苦悩を浮き彫りにしていることで、賛否両論あろうが、私はこのBiopicで、彼女の本心が少しわかったような気がした。


耳についたのはto unconditionally love(無条件の愛)。彼女はこれを注ぎ、人にも求めた。それがあれば幸福なのに、不幸にして、彼女はそれを十分感じることが出来なかった。晩年はユニセフの親善大使として未開地を飛び回り、現地の惨状に心を痛めながらも、明るく子供たちを励まし続けた。癌でこの世を去る(63歳)まで、その情熱は変わらなかった。

彼女の過去は悲惨なものだった。1929年、裕福な家に生まれ、母は彼女をバレリーナにしたくて幼少からバレーを習わせた。しかし、父親はナチスに傾倒し、両親は幼い時に離婚、父親は失踪、彼女はユダヤ系の母とドイツ占領下のオランダで恐怖を感じながら過ごすことになる。ナチスによる虐殺が横行していた時代である。栄養失調で痩せ細った子供たちが町に溢れた。そんな中、ナチスの目を盗んではパフォーマンスを行った。ナチスの情報を流す諜報活動に絡んでいたという一部情報もある。生活資金のためである。第二次世界大戦が、彼女に暗い影を落とした。


映画スターとは無縁な彼女が、有力者の目に留まり、あれよあれよと言う間に、銀盤デビューし、「ローマの休日」(1953年公開)でアカデミー賞(女優賞)を勝ち取る。快挙といってよい。いかにインパクトが強かったかがわかる。このインパクトを超えるのは難しい。この後、色々な役に挑戦して4回ノミネートされるが受賞はならなかった。


彼女は衣装に拘りがあり、配役の設定や演出とともに並々ならぬ感性を示した。当時、彼女のような清楚で天真爛漫なタイプがいなかったこともあり、一躍ドル箱スターに駆け上った。彼女は私生活を覗かれるのを嫌い、パパラッチを必要以上に恐れた。

  

本作には出てこなかったが、何人かと恋仲になり、不倫もあったと噂される。愛に飢えていた(本作では大好きだった父親が失踪し、見放されたと思い愛情を渇望したとある)彼女が甘い言葉に揺らめいても不思議はない。


公式な結婚は1954年(25歳)、相手は俳優のメル•ファーラー。2回の流産の後、仕事を休んで子作りに専念。2回目の流産が映画撮影中の落馬事故だったからだ。それほどまでに子供が欲しかった。その甲斐あってか、翌年長男を出産し、出演依頼が殺到する中、女優業を休んで子育てに専念した。幸せな一時だったろう。その後も2回流産する。メルは仕事に厳しく、妥協を許さなかったらしい。demandingと表現していた。息子によると、両親はいつも仕事の話ばかりしていた。オードリーの目指す無条件の愛から微妙にずれ出し、しだいに、破局に向かっていったのだろう。


2回目の結婚は1969年(40歳)、10歳年下のイタリア人精神科医。翌年男子を出産する。この男は浮気症で、オードリーは愛を独占出来なかった。

息子のために耐えたが、結局1982年に正式離婚。


結婚はしなかったが、1980年に友人の紹介で知り合った俳優ロバート•ヴァルダースと死ぬまで一緒に暮らした。1988年(58歳)にユニセフの親善大使を正式に引き受けて、各地を回ることになる。女優業の傍ら、語学を勉強していたのだろう。英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、オランダ語を話し、スペイン語も少々ということだ。驚嘆すべきことだ。


妻に先立たれたロバートが、無条件の愛を共有できた相手だった。スイスの愛の巣「ラ•ペジブル」は長閑な雰囲気のいいところだ。


オードリーは、か弱そうに見えて、意見をしっかり持ち、自分から進んで行動する。映画についても、周りに流されず自分の意見を主張する。恋の破局も自分から告げる。そして、感受性が人一倍強い。努力も並大抵ではない。本人は不満があるだろうが、やれることは全てやり切った悔いなき人生だったと思う。