私が鬼平犯科帳に初めて出会ったのは、BS で放映されていた、「鬼平犯科帳スペシャル 雨引の文五郎」。それから同シリーズを見るようになった。

鬼平犯科帳は、池波正太郎の代表作だと知っていたが、鬼平役の中村吉右衛門をはじめ、勝野洋、尾美としのり、綿引勝彦、梶芽衣子、三浦浩一、蟹江敬三などピタリと役にはまっていたこともあり、ファンになった。ゲストも豪華。


エンディングの、当時の風景を偲ばせる映像と、ストリング演奏ジプシー•キングスの「インスピレイション」がマッチして実に良い。


FODでTV放送もみた。なんと、9シーズンまであり、スペシャルと続く。

第1シリーズ:26話

第2シリーズ:21話

第3シリーズ:19話

第4シリーズ:19話

第5シリーズ:13話

第6シリーズ:11話

第7シリーズ:15話

第8シリーズ:9話

第9シリーズ:5話

スペシャル:14話

第8シリーズの最終話が、「さらば鬼平犯科帳スペシャル」だから、これで終わるはずだったのだろう。鬼平の死に悲しみ、主要人物が過去の回想をするというもの。原作にはない。じつは、悪党達を油断させるための鬼平の策略だった、という、オチがつく。これが、1998/6/10。


視聴者の要望が多かったのだろう。

それから、2001年第9シリーズ、スペシャル(2005-2016年)と続き、

THE FINALが、最後の最後2016/12/2,3。

というわけだ。スペシャルは、1-9シーズンの話の中からピックアップして、違うゲスト配役で演じている。


確かにどれも面白い。こんなに話が続くのだから、原作話が多いのだろうと思ったが、その通りだった。24巻、短編127話、長編5話。この他に番外編がある。残念ながら、24巻目「誘拐」の途中で急逝のため、いきなり終わってしまっている。


小説を読むと、いかに池波さんが鬼平にいれあげているかが、わかる。24巻と番外編を読んでTVが面白いのは、原作が面白いからだとわかった。TVでは、鬼平犯科帳の他に、池波さんの短編集「にっぽん怪盗伝」を題材にしたものも、いくつか、ある。


こうなると、鬼平こと長谷川平蔵とはどんな人物かが知りたくなった。小説の鬼平は、立派すぎる。剣は強く、洞察力は鋭く、人情は厚く、こんな人がいるのだろうか?と思ってしまう。


実在の人物である。生まれは1745-6年、2説あるのは、亡くなった1795年の年齢から、逆算しているからで、満年齢か数えかで異なる。私としては大差ない。


第9代将軍、徳川家重の御世である。有名な吉宗の次である。無能だったが、側近の大岡忠光(同時代の大岡越前守忠相とも親交あり)に支えられた。平蔵の思春期、1760年に第10代将軍家治になり、田沼意次が台頭した。賄賂政治、金権政治と批判されている。諸説あるが、多分に松平定信などの政敵が、田沼の死後にでっち上げたものだと私は思う。贈り物は一般的に当時、日常茶飯事だし、賄賂との見分けも難しい。田沼は殖産興行に奮闘した。商人に販売独占権(品質価格の安定化)を与え、その見返りに幕府に冥加金を納めさせたため、多少は裏取引もあっただろう。


故•大石慎三郎氏は、清廉とされた政治家に贈収賄の記録があるのに対し、田沼のものは見つからないし、田沼の汚職を決定的にした辻氏の論拠は乏しいと批判している。いつの日か田沼像は覆るのであろうか? 田沼のことを詳しく述べるのは平蔵が田沼の政敵の松平定信に仕えたからだ。


平蔵の幼名は、鐵三郎、或いは鐵次郎。息子の宣義が幕府に提出した「先祖書」にのみ、鐵次郎とある。息子が間違えるか?とも思うが。鐵がついたのは間違いない。大人になって、宣以(のぶため)となった。

平蔵は父も使っていた通称だ。鬼平は池波さんの創作である。


さて、平蔵の若い時は遊び人の悪(ワル)だったようだ。


平蔵の父は京都町奉行をしていた。京都の岡藤利忠が歴代の京都町奉行の言行などを記した(1799年の作だから、平蔵の死後)京兆府尹記事に

「遊里に通い、剰(あまつさ)え悪友と席を同じうして、不相応なことなど致し、大通といわれる身持ちをしける。その屋敷、本所二ツ目なりければ、本所の鐡と仇名せられ、所謂通りものなりける」(現代仮名)

とある。


池波さんの小説では、母は早く死に、継母にいじめられ性格が曲がった、とあるが、平蔵の死の4日前に、妙雲日省という女性が長谷川家で没したことが菩提寺•戒行寺の過去帳に記載されている。これが平蔵の母という説がある。そうなると、継母の話は池波さんの創作で、平蔵は根っからの悪ということになる。


平蔵の父、宣雄は、火付盗賊改役を経て、

1772年、京都西町奉行

平蔵も妻子を連れて京都に赴く。

1773年、父が死去

江戸に戻り、長谷川家の家督を継ぎ、小普請組支配長田備中守の配下となる。


その後、とんとん拍子に出世。


1774年、江戸西の丸御書院番士

1775年、西の丸仮御進物番

1784年、西の丸御書院番御徒頭

1786年、御先手組弓頭

1787年、火付盗賊改役


ここまで出世できたのは、多少なりとも関わりを持った田沼意次の力かもしれない。御進物番から御書院番御徒頭になれるのは異例だった。400石に足高600石の加増もされた。足高は、今で言う能力給だ。


火付盗賊改役とは、過酷な役割で、今後8年も続けるなど考えも及ばなかっただろう。

オイシイ役職ではない。活動に制限がないという特権があると言うが、24時間、江戸以外でも、どこへでも、出向いて悪党と戦わなければならない。しかも、当時盗賊が横行していた。


平蔵は、昔の悪仲間に金をばら撒いて情報を集めたことは容易に想像できる。真面目に勤めている者からすると、いかがわしいと思っただろうし、そんな奴が成果を挙げたら、面白くないだろう。


事実、平蔵は快挙をやってのける。

1789年、神道徳次郎 一派

1791年、葵小僧

の大盗をお縄にし、町の喝采を浴びる。

幕府内部では妬まれこそすれ、賞賛されるわけはない。

葵小僧は、逮捕後10日という最速で処刑。数多の婦女暴行が明るみにでないための配慮だろう。平蔵の人情が見てとれる。


罪人たちへの情けは、石川島人足寄場設立にもある。罪人が多すぎて牢屋不足の問題も解決した。罪人を生産活動に参加させ利益を得るとともに、技術を身につけさせ、後々の生活の糧にする。

この教育的自立支援プロジェクトは、松平定信の寛政の改革の目玉になった。

1789年平蔵が提案、1790-92責任者として兼務で運営した。


定信の間違いは、次年度から予算を削ってしまったことだ。頭を使えばこれでやれる。現在の経営者のアルアルだ。

平蔵は、予算を増やすために銭相場に投資した。金銭価値は変動していたが、その傾向を分析してタイミングを図り、資産を増やしたのは、運もあれ、たいしたものだ。


定信は田沼の影がちらついたか、平蔵を評価しなかった。もともと平蔵が田沼と関わりがあれば、色眼鏡で見ただろう。

田沼が失脚しなかったら、平蔵の未来も明るかったと思う。障害は幕府内部であって、民衆の人気は高かったのだから。


洞察力の高い平蔵にしては、全く情勢を把握していなかったと思われる。越中殿(定信)の信頼だけが心の支え、と勤務に励んだ。出世が閉ざされ、もう酒ばかり呑んで死ぬであろう、と同僚たちに愚痴をこぼしていた、と記録にある。

出世しなくとも、悪を退治し江戸の治安を守ることに情熱を燃やす、という小説の鬼平とは、かけ離れていたようだ。


1795年、火付盗賊改役の御役御免を願い出て3ヶ月後に死去

今で言えば、過労死だろう。平蔵の身分での最高位の町奉行昇進はならなかった。最大の原因は、老中、松平定信に嫌われていたからだろう。


民衆に人気があるのでやめさせられず、こんな過酷な仕事に、なりてはなく、所謂使い捨てにされたのだろう。


哀れな話だ。この平蔵を昭和に再び英雄に創りかえた池波さんの意図が分かる気がする。読者、視聴者に絶大な人気を博した。


(続く)