ぼんやりと過ごしております。

クリックを間違えて開いたフォルダに、このリンクがありました。


タイトルが「おばさん」と出るので一部女性の方には刺激的かもしれませんが、よくよく聞いてみると、無邪気にいつまでも一緒にカレといる未来を信じていた、バブル時代ならではの明るい「唄」なのでした。


そう。
「昭和」は「歌」というより「唄」の方がしっくりくることが多いように思う。
ただ単に、YoYo HeyHey ゆうとるんじゃない。
そこにしっかりと言葉があり、思いがあるように思うから、今こうして聞いてみると
またあの頃に聞いたときと違って聞こえてくるから不思議であり楽しみでもあるのだ。


そう。人間みなトシをとるのだ。
そしてトシをとれば、そのトシなりのステージがあると思う。

若い頃とは違うけど、人としての輝きは、そうやって若さで比べるものではない。

アラ40にもなっても、いまだ単に眠らずにすむ体力や肌のハリやツヤ、素敵ではあるけれど朝になって解けてしまう魔法のような一夜の快楽など、いつまでも肉体的なことだけを求めているとするならば、それはそれで動物としての生命力としてけっして否定しないけれど、ヒトとして生まれたからには、悲しいことに思えてくる。

だって、肉体は劣えるのだから。

仲間たち、そばにいるパートナー。ともに暮らしていくからこその人間であり、周りから刺激を頂きつつ、できれば自分も周りにナニカをお返ししていきたい。

今この時にまだできなくてもいいけど、そうやってこの世界をよくしていくような途中にある前向きな毎日であれば、僕はむしろトシを重ねていきたいし、そこに何の恐怖もない。

僕は、いかなる年齢、性別、国籍の方であっても、僕を「必要だ」と思ってくれる人の期待には応えていきたいし、実際にともに暮らしともに歩むことはなくとも、人としてのレスペクトで人は繋がっていけるのだと信じている。

そのことを「トモダチ」と表するのはちょっと違うし、ましてや家族とまでもいえないし。

好き、というより強く、愛というほど拘束的で肉感的ではない。

そういった「仲間たち」とでもいうようなみんなとともに僕は生きていきたい。



伊良部秀輝さんの訃報で溢れる新聞各紙を見ていて、元同僚たちが「もう少し声をかけていればよかった」と悔やんでいた。


ぼくにとって大切なひとたち。
伊良部さんのように実際にあったことのない人たちも含めて、みんなどうか長生きして欲しい。


そうでないと、この世がつまらなくなってしまうから。


惜しいヒトを亡くした翌日の、雨の土曜日。
「昭和」にまで振り返って、自分がどこから来たのか、あのとき何を目指していたのか

そんな原点に立ち返ってみるには、相応しいのかもしれない。

そしてまた僕らは前へ・・・