心的外傷後ストレス障害、社会不安障害などに対する心理療法では、認知行動療法が有効であるとみられ、考え方や気分を調整しながら、自分で発作や不安をコントロールできるよう、改善を目的としたものである。
「私自身」 も出来るだけ活用している。
私の場合は、それらは単に、浮かび上がるものの一部だけを記した思考や表現に過ぎない。
「存在」自体、有るものにも 無いものにもなる
消したものも幾つかあるし、下書きとして放置したものもある
捉え方は固有のものであり、どのように写るかなど考える余裕はなく、その時々の、様々な状況によって左右される
これらの思考表現は、どのような表現であろうとも、他に向けられるものではなく、あくまで、内なるものが内なるものに向けられているものである
また、私は、ここで、雑念を追い払い、頭の中を整理するツールとしても時折使っている。
頭の中で駆け巡る悩みを追い出そうとするために
麻痺したものを感じ取れるのではないかと試みるために
書く作業、読み返す作業を繰り返すことによって、自分自身への責任に向き合う確認をする時もある。
感性、感受性など人それぞれだろうから、比較すべきことではないが、日々痛感してしまうのは、どうも感覚・感情がおかしなことになっていることにある。
「喜怒哀楽」でいうところの、最初と最後の感覚が閉鎖されているかのようであり、様々な回復方法を取り入れても、それらを実感できていない。
まぁ、パニック障害的なものや記憶障害的なものは、起因から遠ざかることによって、ある程度までは改善されるようになったと思うが、「感動」 というものにつながる「喜び」の感情が欠けてしまったためなのだろうか、自分に対して、「それが何を意味するのだろう…」 と、冷ややかなものとして、そこで止まってしまい、モチベーションへまでにはつながらないようだ。
一方で、すべきことまでに弊害をもたらすようであれば、これまた、ややこしいものとなりうるので、注意を要することになる。
些細な事まで気にしてしまうとき、一旦、気にしてしまうと、耐え難い苦痛へと変貌し、身がもたなくなってしまう。
そのため、「どうでもいいもの」 と処理せざるを得なくなるのか…
または、「開き直る」のか…
ディフェンス・メカニズムのスイッチが押されているようだ…
そういった精神状態を有する上で、確保すべき姿勢とは、優先順位の高いものを、時間の中で少しずつでも進めていかねばならないこと…
時として優先順位すら、分からぬ時が襲ってくるから用心に越したことはない。
ただ、根底となるシステムに 「制限」 がある以上、放置できない。
「制限」 の中での闘いの主人公は、常に自分自身であり、責任を果たすこと、自分自身を克服するのは、当人自身しかいない。
「感覚」の修復は、いつ実現するのか、いまだにわからない
「感覚」 である内なるものは、外的要素からの影響を受ける、又は時として被るものだが、本能として宿る、主観的なものであっていいはずだ
生きる上において、五感の欠落、またはアンバランスにおいて、「第六感」というものが、その五感の障害を補うために、稼働してくれるのかもしれない…
いや、そのように稼働させねばならない
稼働させるのである
内に潜むその力を
自らの力で







