スタニスワフ・レム 著、沼野充義 訳、『ソラリス』を読みました。
ハヤカワ文庫です。
***
今回の本のお供は、指輪を持ったエリーちゃんです。
ええとですね、この『ソラリス』の本、私の恋人からプレゼントされたものなんです。
ですから、同じく恋人にもらった指輪も、一緒に写してみましたのです。
…つまりですね、私は彼のことが大好きなのです。
だから、惚気たかったのです。
***
以下、まずは、ネタバレしまくりの、あらすじです。
この本をこれから読もうと思っている方は、見ない方が良いと思います。
青と赤の二つの太陽を持ち、ソラリス学という固有の学問まであるほどの特異な性質を持つ「ソラリス」という不思議な惑星には、人類の建設した研究ステーションが上空に浮いています。
そこに地球から、心理学者のクリス・ケルヴィンという男が派遣されて来ます。
かつては賑やかだったこの研究施設には、今は、ケルヴィンの友人でもある研究員ギバリャン、サイバネティクスが専門のスナウト、物理学者のサルトリウス、この三人だけが残っています。
ケルヴィンは、ステーションに着いてすぐに、どうもこのステーションは異常事態にあると気がつきます。
はるばる地球から新たな研究員がやってきたというのに、誰も出迎えに出てこないのです。通知は届いているはずなのに。
一人でステーションの奥に入っていくと、疲弊しきったスナウトにまずは会うことができましたが。
兎に角、様子がおかしすぎるのです。
ケルヴィンが、もしやこの男は狂っているのではないかと、疑うほどです。
なんだかはっきりと事情を話そうとしないスナウトに、ケルヴィンの方も探るような接し方しかできず。
二人はお互いに、奥歯に物の挟まったような、なんだか妙に遠回しな言い方で会話を交わします。
兎に角も、その会話で、ギバリャンがすでに自死を遂げたことだけはわかりました。
ここで異常事態が起こっていることだけは確実です。
そして、ケルヴィンはスナウトから、わけのわからないアドバイスを受けます。
『もしも別の誰かを見かけたら、つまりおれでもなく、サルトリスでもない誰かということだが、そのときは……』
『そのときは……何もするな』
ケルヴィンは、ステーションにいるはずの三人、ケルヴィン自身、スナウト、サルトリウス以外の人を見かけるとは一体どういうことなのか、さっぱり意味がわからず、スナウトに『何を見かけるっていうんだ!!』と詰め寄りますが。
スナウトは、何故かそれにはっきりとは答えてくれません。
ケルヴィンはスナウトからまともな話は聞けないと悟り、こうなったら自分でこのステーションで起こっている異常事態を調べるほかはないというわけで、自殺したギバリャンの部屋を探ります。
そこでケルヴィンが、ギバリャンの残した書類を読むうちに、今から三週間前に行われた実験の事を知ります。
どうやら、この惑星ソラリスの海に向けて、有害な作用のせいで国連によって禁止されているX線照射が、地球の許可も得ずにステーションの独断で行われていたようなのです。
たかが海にX線を照射することが、何故、国連によって禁止されていたのか。
それには理由があります。
この惑星ソラリスの海は、「海」とは呼ばれていますが、地球の海とはまるで違うのです。
それは巨大なスライムのような一つの生命体、しかも高度な知性を持った生命体、だと言った方がいいようなものなのです。
ですから、いくら研究のためとはいえ、X線を照射するような暴力的な処置を行うことは、相手が知的生命体である以上は、倫理的にも問題が出てくる行為になっちゃうわけです。
それに、そもそも、そんなことをしたら何が起こるかわかりませんしね。ソラリスの海は、長年の研究も虚しく、ほとんどその性質は解明されていないのですから。
ケルヴィンはさらに、ギバリャンから自分へ宛てた手紙もその部屋で見つけます。
手紙には、いくつかの資料の名が挙げられており、「参照」とだけ書かれていました。
ケルヴィンは一人で必死にこのステーションに起こっている異常事態の原因を探りますが。
そのうちに、妙な出来事が起こります。
ステーションにいるはずのない、黒人の女に会ってしまうのです。
それは幽霊でも幻でもなく、実体を持った、リアルな女です。
その女は、どうやら亡くなったギバリャンの周りを、うろついているようです。
その後も、ケルヴィンはスナウトと話したり、もう一人の研究員のサルトリウスにも会ったりしますが。
ケルヴィンはさらに、ギバリャンから自分へ宛てた手紙もその部屋で見つけます。
手紙には、いくつかの資料の名が挙げられており、「参照」とだけ書かれていました。
ケルヴィンは一人で必死にこのステーションに起こっている異常事態の原因を探りますが。
そのうちに、妙な出来事が起こります。
ステーションにいるはずのない、黒人の女に会ってしまうのです。
それは幽霊でも幻でもなく、実体を持った、リアルな女です。
その女は、どうやら亡くなったギバリャンの周りを、うろついているようです。
その後も、ケルヴィンはスナウトと話したり、もう一人の研究員のサルトリウスにも会ったりしますが。
スナウトに、あの女は何なのか説明を求めても、あいかわらず何も話してくれません。
このステーションにいると、誰の元にも「客」がやって来るのだ、などと言うだけです。
サルトリウスのいる研究室を訪問しても、サルトリウスは挙動不審な動きを見せて、まともに会話もできません。
しかもなんだか部屋にはサルトリウスの他にも誰かがいるようなのですが、サルトリウスはそれを必死に隠そうとします。
そうこうしているうちに、ついに、ケルヴィンの元にも「客」がやってきました。
それは、もう10年以上も前に自殺したケルヴィンの恋人のハリーでした。
ケルヴィンはハリーの自殺に自分の責任を感じています。
ハリーが自殺を仄めかした夜、ケルヴィンはそれをまともに取り合わず、彼女を残して部屋を出てしまいました。
その時、たまたま、ケルヴィンは研究のための試薬(毒物)を部屋に持って帰って置いていたのですが。
それは十分人間一人の致死量分ありました。
ハリーはその夜、本当に自殺してしまったのです。
ステーションの自室で寝ていたケルヴィンは、ハリーの夢を見ますが、その後目覚めると、ハリーが部屋にいました。
最初は夢の続きだと思っていたのに、どうやらこれが現実だと気づいたケルヴィンは、そのハリー…ハリーにそっくりの何かを、どうにかしようとします。
うまく騙して、ハリーの腕を捻り上げてみましたが、ハリーは平然としています。
睡眠薬を飲ませてみても、効きません。
最後にはハリーを上手く騙してロケットに詰め込み、宇宙空間に飛ばしてしまいました。
ケルヴィン自身がついに「客」に訪問されたことで。
やっとスナウトとまともに話ができるようになり、また自分の体験からも、ケルヴィンはだんだん事情がわかってきました。
X線照射の実験をしてから後に、ソラリスの海が「客」を送ってくるようになった。
どうやらソラリスの海は、寝ている間に自分達の意識を探って、もっとも強烈な思い出の人を探しだし、実体化させて送ってくるらしい。
その海の作った「客」は、殺そうが捨てようが、また戻ってくる。
酷い目にあわされた記憶をもたない、新しい、同じ「客」として。
ソラリスの海がどうして「客」を送り込んでくるのかはわからない。
こちらになんらかの実験をしているのか、攻撃してきているのか、それとも逆に歓迎してもてなしてくれているのか。
海の作り出した「客」自身も、自分の存在理由はわかっていないようです。
自我があり、ふつうの人間と変わらない思考や感情を持っている。
「客」が作り出された設計図=自分達の記憶にピッタリ合致する、ほとんど人間と区別がつかない存在です。
何をしても殺したり、傷つけることが、できない以外は。
自殺したギバリャンは、この状況に耐えられなくなってしまったらしい。
ケルヴィンの元には、結局その後、新しいハリーがやってきます。
今度のハリーとは、ケルヴィンは徐々に心を通わせてしまいます。
過去に死んだ恋人の代わりとしてではなく、新たに、ケルヴィンはこのハリーを愛し始めてしまうのです。
しかし、ハリーは時間が経つごとに、自分が一体どんな存在なのか、気づいていきます。
自分はソラリスの海が、ケルヴィンの記憶を探って作り出した、偽物のハリーであり、偽物の人間である。
いくら自分がケルヴィンを愛しても、ケルヴィンが自分を愛してくれても、自分が人間ではない以上、二人が結ばれることはない。
自分が惑星ソラリスから離れて存在できるかどうかはわからないし、そもそも人間ではないものを地球が受け入れてくれるはずがない。
ハリーとケルヴィンは、このステーションでしか、愛しあえない。
結局は自分は存在しているだけでケルヴィンを苦しめることしかできない。
「客」のハリーの組成を調べるうちに、ケルヴィンはどうやらハリーがニュートリノ系の組成によってなる物質でできていると、気づきます。
ニュートリノ系の物質が安定して存在しているのは、ソラリスの海が場を作っているからであり。
もしもその場を、崩すことができたならば、「客」を構成するニュートリノ系の物質は崩壊して、「客」は消滅するはずです。
ケルヴィンはハリーを失いたくはないので。
なんとかスナウトをだまくらかして、物理学者サルトリウスにニュートリノ系の場の安定を破壊できる装置を使わせないように、事を運ぼうとします。
そして、ニュートリノ系の場の安定を崩す代わりに、新たなるX線照射によって、ソラリスの海へのコンタクトを試みることになりました。
どうやら海は寝ている間の我々の脳を探っているようだから、逆にこちらから起きている時の脳波をX線で海に送る実験をしてみようということになったのです。
その時に使用する脳波を提供することを、ケルヴィンは承諾します。
実験の後のある日、ソラリスの海は、今までで始めて見せる、不思議な美しい光景を作りだしました。
泡を空へと舞い上がらせたのです。
それまでも海は、なんだか不思議な建築物のようなものを自分の身体で作り上げてみたり。
ダイナミックでファンタジックな噴水ショーのようなことをやったりしていました。
海は、自由自在に自分の身体を液体から固体へ、気体へ、変化させたり戻したりできるのです。
なんでそんなことをするのかは、長年の研究によっても明らかにはされていませんが。
ソラリスの海の不思議な光景が観察された後で、ある夜ハリーはケルヴィンを苦しめる事に耐えられなくなって、スナウトに頼んで自ら自分を消滅させてしまいます。
ニュートリノ系の場の安定を破壊する装置を使って。
そして、あの、海が不思議な光景を見せてくれた時以来、いなくなった「客」が二度と戻ってくることはなくなってしまっていたので。
ハリーも二度とケルヴィンの前に現れることはなかったのでした。
色々な出来事があり、ソラリスの海を理解する難しさを理解し、恋人を失う苦しい経験もしましたが。
なんでそんなことをするのかは、長年の研究によっても明らかにはされていませんが。
ソラリスの海の不思議な光景が観察された後で、ある夜ハリーはケルヴィンを苦しめる事に耐えられなくなって、スナウトに頼んで自ら自分を消滅させてしまいます。
ニュートリノ系の場の安定を破壊する装置を使って。
そして、あの、海が不思議な光景を見せてくれた時以来、いなくなった「客」が二度と戻ってくることはなくなってしまっていたので。
ハリーも二度とケルヴィンの前に現れることはなかったのでした。
色々な出来事があり、ソラリスの海を理解する難しさを理解し、恋人を失う苦しい経験もしましたが。
それでもケルヴィンは地球には戻らず、今後もこのソラリスステーションで、ソラリスの海の研究を続けていくことを決断しました。
***
この『ソラリス』という小説は、主人公のケルヴィンの一人称で書かれています。
その他の登場人物は、同僚のスナウトとサルトリウスの2人だけです。
それに、正確な人物ではありませんが「客」のハリーもここに加えてもいいかな?とは思います。
この人たちが不思議な惑星ソラリスの研究施設で繰り広げるドラマ…が私が上に書いたあらすじです。
しかし、この小説の本当の主人公は実はケルヴィンではありません。
主人公は、明らかに、「ソラリスの海」です。
いわば表の主人公ケルヴィンを書くことによって、その裏に真の主人公ソラリスの海を浮かび上がらせているようなものです。
ソラリスの海は、その膨大な質量を利用して、自らの乗る惑星の軌道すらを操る、巨大な原形質の脳のようなものです。
どうやら、生物、と呼んでもよいもののようですが…。
しかし、それは地球の生物群に属する生物の成り立ちとは、全く異なるものです。
ソラリスの海は、惑星ソラリスに、たった一つの巨大な(多分)生命体として存在しています。
たった一つの生命体によって、惑星ソラリスの生態系は出来上がっている…人類がやってくるまでは、ソラリスの海には他者というものすら無かったわけで、そうなると自我と呼べるものがあるのかどうかも微妙なところです。
惑星の軌道を自分の質量でコントロールできるくらいですから、かなり高度な知性は持っているに違いないのですが。
圧倒的に、ソラリスの海は、我ら人類とは異なる知性です。
人類が、ソラリスの海という知性との交流を求めようにも、その難しさは「言葉が通じない」というレベルの話ではありません。
まず、言葉のような「記号」が通じるかどうかも微妙です。
このように圧倒的に違う知性と、果たして我々人類はコンタクトすることが可能なのか?
それがこの小説の一番大きなテーマでしょう。
そしてその可能性を考えるうちに、逆に浮かび上がるのは、いかに我々が人間という枠に閉じ込められているか、という問題です。
人間は自分達の行動原理を基準にしてしか、他の存在を理解できないのです。
例えば、『触手を「腕」のようにして使い…』だとか、『「脚」の代わりに粘膜を波打たせて移動する…』とか、こういう表現はいかに自分達の体を基準として物事を理解しているということが、素朴に表れていると思います。
それに、我々が持つ五感。
これも、限界をつくっています。
世界を捉えるのが感覚器官に寄る以上、我々がもつ感覚以外の感覚で捉えた世界は、想像することすら難しいのです。
我々の知性は、初めから限界を持って、存在しています。
この『ソラリス』という小説では。
かつて自殺した恋人そっくりの人物と向き合うケルヴィンの、悔恨を乗り越えた愛の、恋愛小説といった面ももちろんありますし。
あらすじには書きませんでしたが、ストーリーの合間合間には、『ソラリス学』という、惑星ソラリスの海の架空の研究史の解説が挟まっていまして。
それは見事な、学問の系譜のパロディみたいなものになっています。
そういう部分も魅力的です。
それから、スタニスワフ・レムの素晴らしい想像力で描かれた、ソラリスの海が作り出す光景。
海の描写を読むと、ダイナミックでファンタジックな、恍惚としてしまうような世界が脳裏に浮かびます。
ソラリスの海との絶望的なコミュニケーション不可能性の中でたどりついた、ケルヴィンによる神の考察も、面白いです。
個々に面白い部分は沢山あって、色んな読み方ができるのが、この小説の魅力なのだと思います。
しかもその全てが、ソラリスの海の知性のあり方を、圧倒的に我々と違う知性を、理解できない知性を、我々人間では表現することが不可能な知性を、浮かび上がらせるパーツでもあるのです。
小説の表の主人公ケルヴィンは、ソラリスの海とのコンタクトの難しさを、苦しい体験を持って体感することになりましたが。
それでも彼は、惑星ソラリスに残ることを選びました。
その決断に何を思うかは、人それぞれでしょうけれど。
私は、限界を知りそれでもなお道を模索し続けようとする彼の姿を、不遜だとか諦めが悪いとか、そんな風には思えません。
自分は彼のようにありたいと、思いますよ。
ああそうそう、ちなみに、この『ソラリス』ですが。
小説の最初の方は、下手なホラー小説なんて吹き飛んじゃうくらい、怖いです。
ハリーがケルヴィンの元に表れてからは、怖さはないんですが。
そこまでの展開、まだ「客」というものが何なのかわからない状態の時ですね。
もう、めっちゃくちゃ、怖いです。
背筋が寒くなるような、不気味な雰囲気がプンプン漂っています。
作者と訳者の筆力は、こういう部分にも表れていますよ。
読ませてくれます。
とっても面白いSF小説です。
***
ところで。
この『ソラリス』を原作としたタルコフスキー監督の映画『惑星ソラリス』を、この機会に観てみました。
映画の方では、少し設定が変わっていて、ハリーはケルヴィンの自殺した妻だということになっています。
そしてその妻と、ケルヴィンの母の間の確執が自殺の原因の一つになっているようなことも匂わせていました。
タルコフスキーの映画では、ソラリスの海は脇役になっていて。
主に、ハリーに向き合うことで、かつての自分と向き合うケルヴィンに焦点を当てている感じでしたね。
あとは、ソラリスの海の作り出したハリーを描くことで、人間性というものの定義について考えさせてくれたり。
小説とはちょっと違う感じでしたよ。
それから。
映画のはじめの方で、未来都市をドライブする長いシーンがあります。
なんだか見覚えのあるような光景だと思っていたら、これ、首都高の映像でした!
私の生まれる前の映像なんですが、それでもわかりますねぇ。
なんか、嬉しくなっちゃいました。
全体的に映像が芸術的な感じで、淡々と進んでいく映画でした。
こちらも面白かったです。
***
私のブログ内で、読書感想文はテーマで分けてあります↓
テーマ:読書
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この『ソラリス』という小説は、主人公のケルヴィンの一人称で書かれています。
その他の登場人物は、同僚のスナウトとサルトリウスの2人だけです。
それに、正確な人物ではありませんが「客」のハリーもここに加えてもいいかな?とは思います。
この人たちが不思議な惑星ソラリスの研究施設で繰り広げるドラマ…が私が上に書いたあらすじです。
しかし、この小説の本当の主人公は実はケルヴィンではありません。
主人公は、明らかに、「ソラリスの海」です。
いわば表の主人公ケルヴィンを書くことによって、その裏に真の主人公ソラリスの海を浮かび上がらせているようなものです。
ソラリスの海は、その膨大な質量を利用して、自らの乗る惑星の軌道すらを操る、巨大な原形質の脳のようなものです。
どうやら、生物、と呼んでもよいもののようですが…。
しかし、それは地球の生物群に属する生物の成り立ちとは、全く異なるものです。
ソラリスの海は、惑星ソラリスに、たった一つの巨大な(多分)生命体として存在しています。
たった一つの生命体によって、惑星ソラリスの生態系は出来上がっている…人類がやってくるまでは、ソラリスの海には他者というものすら無かったわけで、そうなると自我と呼べるものがあるのかどうかも微妙なところです。
惑星の軌道を自分の質量でコントロールできるくらいですから、かなり高度な知性は持っているに違いないのですが。
圧倒的に、ソラリスの海は、我ら人類とは異なる知性です。
人類が、ソラリスの海という知性との交流を求めようにも、その難しさは「言葉が通じない」というレベルの話ではありません。
まず、言葉のような「記号」が通じるかどうかも微妙です。
このように圧倒的に違う知性と、果たして我々人類はコンタクトすることが可能なのか?
それがこの小説の一番大きなテーマでしょう。
そしてその可能性を考えるうちに、逆に浮かび上がるのは、いかに我々が人間という枠に閉じ込められているか、という問題です。
人間は自分達の行動原理を基準にしてしか、他の存在を理解できないのです。
例えば、『触手を「腕」のようにして使い…』だとか、『「脚」の代わりに粘膜を波打たせて移動する…』とか、こういう表現はいかに自分達の体を基準として物事を理解しているということが、素朴に表れていると思います。
それに、我々が持つ五感。
これも、限界をつくっています。
世界を捉えるのが感覚器官に寄る以上、我々がもつ感覚以外の感覚で捉えた世界は、想像することすら難しいのです。
我々の知性は、初めから限界を持って、存在しています。
この『ソラリス』という小説では。
かつて自殺した恋人そっくりの人物と向き合うケルヴィンの、悔恨を乗り越えた愛の、恋愛小説といった面ももちろんありますし。
あらすじには書きませんでしたが、ストーリーの合間合間には、『ソラリス学』という、惑星ソラリスの海の架空の研究史の解説が挟まっていまして。
それは見事な、学問の系譜のパロディみたいなものになっています。
そういう部分も魅力的です。
それから、スタニスワフ・レムの素晴らしい想像力で描かれた、ソラリスの海が作り出す光景。
海の描写を読むと、ダイナミックでファンタジックな、恍惚としてしまうような世界が脳裏に浮かびます。
ソラリスの海との絶望的なコミュニケーション不可能性の中でたどりついた、ケルヴィンによる神の考察も、面白いです。
個々に面白い部分は沢山あって、色んな読み方ができるのが、この小説の魅力なのだと思います。
しかもその全てが、ソラリスの海の知性のあり方を、圧倒的に我々と違う知性を、理解できない知性を、我々人間では表現することが不可能な知性を、浮かび上がらせるパーツでもあるのです。
小説の表の主人公ケルヴィンは、ソラリスの海とのコンタクトの難しさを、苦しい体験を持って体感することになりましたが。
それでも彼は、惑星ソラリスに残ることを選びました。
その決断に何を思うかは、人それぞれでしょうけれど。
私は、限界を知りそれでもなお道を模索し続けようとする彼の姿を、不遜だとか諦めが悪いとか、そんな風には思えません。
自分は彼のようにありたいと、思いますよ。
ああそうそう、ちなみに、この『ソラリス』ですが。
小説の最初の方は、下手なホラー小説なんて吹き飛んじゃうくらい、怖いです。
ハリーがケルヴィンの元に表れてからは、怖さはないんですが。
そこまでの展開、まだ「客」というものが何なのかわからない状態の時ですね。
もう、めっちゃくちゃ、怖いです。
背筋が寒くなるような、不気味な雰囲気がプンプン漂っています。
作者と訳者の筆力は、こういう部分にも表れていますよ。
読ませてくれます。
とっても面白いSF小説です。
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ところで。
この『ソラリス』を原作としたタルコフスキー監督の映画『惑星ソラリス』を、この機会に観てみました。
映画の方では、少し設定が変わっていて、ハリーはケルヴィンの自殺した妻だということになっています。
そしてその妻と、ケルヴィンの母の間の確執が自殺の原因の一つになっているようなことも匂わせていました。
タルコフスキーの映画では、ソラリスの海は脇役になっていて。
主に、ハリーに向き合うことで、かつての自分と向き合うケルヴィンに焦点を当てている感じでしたね。
あとは、ソラリスの海の作り出したハリーを描くことで、人間性というものの定義について考えさせてくれたり。
小説とはちょっと違う感じでしたよ。
それから。
映画のはじめの方で、未来都市をドライブする長いシーンがあります。
なんだか見覚えのあるような光景だと思っていたら、これ、首都高の映像でした!
私の生まれる前の映像なんですが、それでもわかりますねぇ。
なんか、嬉しくなっちゃいました。
全体的に映像が芸術的な感じで、淡々と進んでいく映画でした。
こちらも面白かったです。
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私のブログ内で、読書感想文はテーマで分けてあります↓
テーマ:読書
また、読書感想文の記事をまとめたインデックスページも作りました。
よろしければ、他の本の感想もどうぞ。
過去記事へのコメント等も歓迎いたしております。
ラノベのSF小説です、こちらもどうぞ↓
ソラリス (ハヤカワ文庫SF) Amazon |
***
スマホゲームの『どうぶつの森 ポケットキャンプ』やってます。
キャンプ場に迷路を作りました!
フレンドの皆さん、うちに遊びに来て、迷路をクリアしてみてください♪
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次の年号は何だと思う?
▼本日限定!ブログスタンプ
次の年号かー。
想像もつきませんねぇ。
しかし、私は昭和生まれなので。
昭和、平成、次の年号…と、三つの時代を生きることになりましたねぇ。
子供の頃、明治大正昭和を生きた人って、三つも年号を使えていいなぁ!かっこいいなぁ!
なんて思ってたんですが。
自分も、この歳ですでに三つ目に突入するとは。
子供の頃の私よ、喜びたまえー!