マックス・エルンスト著、巖谷國士 訳、『百頭女』を読みました。
河出文庫です。
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今回、本のお供には、私の口の悪いエリーちゃんに登場してもらいました。
お洋服はダイソーさんで買ったエリーちゃんのウェディングドレスに、ちょい足ししてリメイクしたもの。
レースとビーズを足して、少し華やかにしました。
いつかの私のブログ記事にも載せたことのあるお衣装です。
なんとなく、この衣装を着たエリーちゃんは、この本の内容に似合うかな?と思いまして。
彼女にお願いいたしました。
ーーーエリーちゃん、今回はご苦労様です。おかげで良いお写真が撮れましたよ。
『てかさー、この服さー、私着るの2回目っしょ?
マジないんだけど、同じ服2回着るとか。
新しい服早くよこせよ、無理ならシね。』
ーーーまあまあ、そんなこと言わないでちょうだいな、エリーちゃん。よく似合ってますから、ね?まるで夢のように綺麗ですよ。
『私は夢のように綺麗だけど、おまえはゴミの様に小汚いな。
撮影者は写真に写らねーからって、その格好はないと思うよ?
穴の空いたスエットとか、もう捨てろよ。
まともな服着ろ化粧くらいしろ。
サボりすぎだろ、それでも女か?』
ーーーぐっ…痛いところを突いてくるなぁ、エリーちゃん。
私の格好は野良着だから、これで良いんですよ。どーせ汚れちゃうんだから。
はいはいな、後で着替えますよ。すみませんね。
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今回、再読ですが。
さて、これ、何度目の再読か…多分、通して読むのは10回を超えているはず。
パラパラ眺めるだけってのも含めるなら、それ以上のはず、です。
初めて読んだのは…多分、私がまだ十代の頃じゃないでしょうかね?多感な時期に、なかなか大きな衝撃を受けた本です。
というのも、この本、ちょっと変わった本で。
エルンストがコラージュを主体としそこにエッチングを加えて作り出した作品…不思議な白黒の絵に、ほんのちょっとしたキャプションがついてあるだけの、絵画でできた小説あるいは小説的な連作絵画、といったもので。
まあ、平たく言えば、大人向けの絵本、みたいな感じですかね、見た目は。
…でもね、これは絵本ではない。
これは、小説なのです。そうとしか、言えない。
だってキャプションはあくまでキャプションであって(そこに意味がないわけではないけれど)本文ではなく、物語を紡ぐのは絵画なんですもの。
この本の絵は、挿絵ではないのです。
絵そのものの連続が、物語を紡ぐのです。
構成としては。
全部で148のキャプション付きのコラージュ作品が、9つの章に別れています。
さて、そこに、一体何を読み取るか?
それは読者次第。
ストーリーを読み取ってもいい、押し寄せる連続するイメージの波に溺れるのもいい、あるいはコラージュによる思いがけないものの組み合わせに驚き呆れるのもいい。
静かな夜、居心地の良い安心できるお部屋に独り閉じこもり、手元だけを照らす灯りの下で。
誰にも邪魔されずにひっそりと、ページを開くのに適した本です。
秘密の本。
そこで得るイメージは、全て私だけのもの。
誰にも教えない、私独りだけの秘密です。
秘密の悦楽なのです。
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私達は普段、物事を考える時。
色々な物を関連させて考えると思います。
例えば、ミシンを見たら、過去に見たミシンを思い出して、これはミシンだと思う。それから、針だの糸だのを連想する。
そして、ここで行われる事は縫い物だなと、無意識に思うはずです。
机を見たら、椅子や筆記用具、あるいはPCなんかが思い浮かぶでしょうし。
ここでは、なにやら調べ物やら書き物やらでもするのだなと、思うでしょう。
便利な機能です。
いちいち、ゼロから考える必要がないんですから。
机を見るたびに、四角い板に脚がついているこの物体はなんぞや?
これはなにに使うものなのだ?
ミシンを見るたびに、これは生きてるのか?動くのか?餌でもやってみようか?
なーんて考えてたら、時間が足りませんものね。
なんらかの物体に出会う度、まるで赤ちゃんからやり直しです。
物事を関連させて考える機能は、素晴らしく便利です。
でもね、これは、我々が「囚われている」とも、言える事だと思います。
ミシンはこういうもの、机はこういうもの、それぞれの付属物はこういうもの達、そして、こうやって使うもの、こういうところにあるもの…気がつけば、私たちは決めつけてかかって、その思いに囚われている。
我々が現実だと思う世界は、我々が作り上げた我々に都合の良い、我々の為にねじ曲げられた世界です。
本当の現実の姿は、こんなに単純で理性的、合理的な世界では無いはず。
ミシンは我々の思うだけのミシンではない。
ミシンは武器にもなれば、食物にもなり、恋人にもなり、物言わぬ物質ですらなくなり、何にでもなる、何でもできる、踊ることも歌うことも恋することもできる…
だって、元来、ミシンはなんでもないものなのですもの。
ミシンを『ミシン』たらしめているのは、我々の合理性に囚われた心だけであって、本来はなんでもないものなのです。
ならば、ミシンはなんだってできるし、なんにだってなれるのです。
本当の現実の姿、超現実の姿は、なんて豊かなことか!
『解剖台の上のミシンとこうもり傘の偶然の出会いのように美しい』
(ロートレアモン『マルドロールの歌』)
コラージュの技法によって。
普段我々が見慣れている(そして、そのあり方を無意識に決めつけている)もの達が、我々の作り上げた合理的な現実の檻を抜けて、思いがけない出会いを果たすことができます。
見慣れたものたちの集まるノスタルジーの世界で、意外な出会いが生む超現実の驚き!
一瞬だけ手が届いた超現実、そこに爆発的に表れる美!
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さてこの『百頭女』、原題は『LA FEMME 100 TÊTES 』です。
『100 TÊTES』サン・テートは、『sans têtes 』すなわち無頭女の駄洒落を含みます。
(あ、ちなみに私、フランス語はさっぱりわかりません…一応大学でフランス語とったんですけどねぇ、不真面目な学生だったので、なんにも覚えてません。)
頭が無い女、だからこそ、百の頭を持てる無限に豊かな女。
囚えることのできない女。
この作品中に百頭女は登場しますが、しかし作品自体が百頭女だと思っても良いと思います。
作品中の登場人物としての百頭女は、入れ子のようにしてあらわれる、作品自体のイメージでもあるのではないでしょうか?
この本、あらすじを書こうとしても、人によって、あるいは同じ人でもその時によって、同じものは2度と書けないでしょう。
それでも、今回の読書で私が得たイメージによるあらすじを、簡単にでも少し書いてみましょうか。
*・*・*・*・*・
気球から飛び出した大理石の男が、指ハサミで気球を繋ぎ止めるロープを切ろうとしている。
群衆は、気球を地に留めようと、男のことなど気にせずに騒いでいる。
無原罪の宿りは失敗し、宿るはずの子供は嘆き、母親は膝を抱いて座る。うさぎが横切っていく。
巨大な女は、また失敗する。
箱に詰められた下半身も失敗する。
風景は変わる。絡み合うボトルを振る腕はダンスを踊る。
また、変わる、遠い風景。
また、変わる。光の筋が世界に伸びる。
物語は進む。
過去の幽霊たちは金切声をあげる。
そこに突然あらわれる、私の妹、百頭女。
鳥類の長、怪鳥ロプロプはあちらこちらを飛び回る。
そして、死んだ男のようなプロメテウス。
百頭女は暗黒のイメージの中、そこここにあらわれる。
日の光の降り注ぐ往来にも、隠された部屋の中にも。
幽霊たちの背後に登場する、カトリック教徒の猿と、ロプロプ。
特別な存在。許された存在。
それを見る百頭女。あるいは、それが見られている。
しかし、彼女は結局秘密を守ることにする。
その手で人々の両目を塞ぐ。
猿は知っている、百頭女を。
知っているだけで、知っていることを知っている。
そして、また、お話は最初に戻る。
*・*・*・*・*・
…うーん、まあ、実際に読んでみてくださいとしか、言いようがありませんね。身もふたもないですけど。
あらすじなんて、書くんじゃなかったかな…。
わけわからないですよね。
でも、そういう本なんです、これ。
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本書、『百頭女』にはブルトンの緒言がついてます。
それから、『マックス・エルンスト頌 百頭女のために』と題して、瀧口修造、澁澤龍彦、赤瀬川原平、窪田般彌、加藤郁乎、埴谷雄高、それから訳者の巖谷國士の、詩や文章が寄せられています。
それぞれの百頭女解釈が、比べてみると面白いです。
こんな特殊な本が文庫で読めるというのも、素敵なことだと思います。
興味を持たれた方はぜひ、この『百頭女』、パラパラと眺めてみてください。
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