セレスト・アルバレ著、三輪秀彦 訳、『ムッシュー・プルースト』を読みました。

早川書房のハードカバーです。
初版、昭和52年12月31日。







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本のお供は、私が高校生の頃に使っていた、ミッキーさんのぬいぐるみマフラーです。
当時、制服の上から巻いてました。
タンスの奥から発見しましたよ。

…コレ、また使っちゃおうかしらん?だってかわいいんですもの。
ただ置いておくのも勿体無いし。ふふっ。





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この本、著者はセレスト・アルバレとなっていますが、実際には、
『本書はセレストが自ら執筆したのではなく、ジョルジュ・ベルモンを相手にして口述したのを、後にベルモンが整理したとされている』(訳者あとがきより)
ということです。





セレスト・アルバレはプルーストの晩年の8年間ーーープルーストが健康を害し、部屋に閉じこもり命を削って『失われた時を求めて』を完成させようとした8年間、プルーストの家に住み込み、プルーストの側で女中として秘書として仕えた若き女性です。

彼女はプルーストの死後、世界中から質問に会いました。
プルーストの私生活を知り、プルーストに信頼され、プルーストの最も近くにいた人物でしたから。

しかし、彼女は質問に答えることを固く拒否し続けました。
下手にプルーストとの生活を報告することは、彼を裏切ることになるだろうと考えていたのです。


ところが、セレストは齢82歳にして、ついにこの本で五十年の沈黙を破ることになります。

それはなぜか?
訳者あとがきによると、英国のジョージ・D・ペインターが発表した『マルセル・プルーストーーー伝記ーーー』というプルーストの"決定的な"研究書に反論する為だそうです。

この『マルセル・プルーストーーー伝記ーーー』は、プルーストと直接接触のあった人達へのインタビューもなく、それまでに発表されていたプルースト研究書のみをまとめあげたもの、間接的な資料のみでプルーストの生涯を再構成しようとしたものだったそうで。

セレストからしてみれば、嘘ばっかりってことになったんでしょうね。

『八十二歳になって彼女が意見を変えたのは、自分より良心的ではない他の人たちが、真実の資源を自由に使用できなかったり、彼らの"興味深い"(または自分勝手な)くだらない仮説で学位論文をでっち上げる器用さ、または誘惑が過剰なあまり、あまりにもマルセル・プルーストを裏切っている、とまさに彼女が判断したからである。』(ジョルジュ・ベルモン 序文より)

そういう訳で、本書『ムッシュー・プルースト』は語られることとなったのです。









さて、このセレスト・アルバレ、実は『失われた時を求めて』に実名で出て来ます。
もちろん、現実のセレスト・アルバレとしてではなく、小説の登場人物の一人として役柄を与えられてです。

『失われた時を求めて』の話者が、二度目のバルベック滞在の際にホテルで出会い友愛を深めた、外国の貴婦人に従ってバルベックに来ていた小間使いの姉妹の一人、としてセレスト・アルバレは登場します。

この小説の中のセレスト・アルバレ達姉妹は、実は『失われた時を求めて』随一の萌えキャラ達です。
…いや、私もまさか、この文学大著において、萌えキャラに出会えるとは思ってもいなかったのですが。
うーん、萌えキャラとしか表現できないくらいに、本当に萌え萌えなんですよねぇ。

ちょっと『失われた時を求めて』から、セレスト・アルバレのセリフを引用してみます。
『失われた時を求めて』の話者のホテルの部屋で、小間使い姉妹二人が、ベッドで食事をする話者にお話ししている場面です。


『あら!懸巣(かけす)のような髪の毛をした黒い小悪魔さん、あら、ひどいいたずらっ子だこと!何を考えていたのかしら、あなたをこさえたときあなたのお母さまは、だってあなたはまるっきり鳥だもの。ごらんよ、マリー、そっくりじゃないかしら、ほらくちばしで羽につやをつけている、首をまわしている、あんなにしなやかに!身軽そうね、とびたつ稽古をしているところにそっくりだわ。ほんとにまあ!運がよかったわねえ、あなたをおつくりになったかたがたがあなたをお金持の身分に生まれさせるようにしてくださって。そうでなかったら、あなたのようにひどいむだづかいをする人はどうなっていたでしょう?ほら、クロワッサンをすてるわ、ベッドにふれたからって。ほらほら、あんなにミルクをこぼしている、ちょっと待ってください、ナプキンをかけてあげますから、自分ではやれないんでしょうからね。あなたのようなこんなばかげた、こんな不器用な人は見たことがありませんよ。』
(ちくま文庫『失われた時を求めて 第四篇ソドムとゴモラⅠ 』マルセル・プルースト著 井上究一郎 訳)


このセリフ、これ、実際に現実のセレスト・アルバレがプルーストに話したセリフを、プルーストが小説に使ったそうです。






…なんなんだ、この萌えメイドは!!!!



私、『失われた時を求めて』のこのシーン、ものすごく印象に残ってまして。
この萌えセリフを撒き散らす最強の萌えメイド、セレスト・アルバレの語るプルースト、絶対に読みたい!と思って、本書を取り寄せたのです。









実際に、この『ムッシュー・プルースト』を読んでみて。
セレストの、プルーストへの愛のあまりの深さ、主人に仕える者としての身を弁えた愛の深さに、私は単純に感動してしまいました。

こんなにも、主人を尊敬し、自分の立場を守り、心からの忠義を尽くした彼女の姿に、感動せずにいられるものですか。

それと同時にすごい羨望も湧きました。そこまで愛せるご主人様を持てたということに対して。

…いや、ちょっと自分、身分制度がきっちりとある社会制度の中での主人と使用人の関係に憧れをいだいておりまして。
お互いにきっちり決められた上下の立場を踏み外すことなく、尊敬しあえる関係…に安心感を期待してしまうのですよね。


(というのも、絶対に信じられる主がいれば、そりゃ何も考えずとも主人にお仕えする為ってことで、自分の存在意義は保証されますから、楽チンですからね。
逆に自分が主だったとしても、ノブリスオブリージュ的な感じに下僕を守ることで自分の存在意義は保証されますし。
個人が個人として一人で立つのは、大変なことですから。
役割があって、しかもその役割を心から受け入れることができれば、何の為に生きればいいのかとか悩む必要がなくなりますし。
楽な方に憧れて、現実逃避したくなって、そんな関係に憧れちゃうのだと思います、私は。
…以上自己分析でした。)





晩年のプルーストが執筆のため閉じこもったアパルトマンのお部屋で女中として、秘書として暮らす若く美しく賢い女性。
世間とは時間の逆転した、夜が昼で昼が夜の生活。
厚くひかれ、光を通さないカーテン。
足音を消してしまう絨毯。
いつも暗く音の立たない、時間の分からないようなアパルトマン。
喘息の発作を抑えるための薬の燻蒸の煙がモクモクと立ち込める部屋に閉じこもるプルースト、偉大なるご主人様。
そのご主人様がベッドで執筆しているのは、後に文学史上にそびえ立つ巨塔『失われた時を求めて』です。


ゔわー、ゔわー、ゔわー!!!
なんだコレ、なんだコレ、出来過ぎです。
ファンタジーみたい、ゴシック小説みたい、なんて素敵な設定なんでしょう!


この『ムッシュー・プルースト』ですが、もしも私がプルーストの著作を読んでいなかったとしても、きっとのめり込んで読んでしまったと思います。
私にとって、セレストの語るプルーストとの生活は、神話です。
こんな素敵な生活があるなんて…

この本、私、少しずつ少しずつ、味わって読みました。
読み終わってしまうのが勿体なくて。








さて、私の欲望ダダ漏れの感想はちょっと横に置いておきまして。

先に読んでいた、モーロワのプルースト評伝『プルーストを求めて』との印象の違いなど述べてみようと思います。



モーロワはプルーストをして、愛を求め続けた人と評していました。
プルーストは生涯にたくさんの手紙を書き、またその手紙の内容が相手にたいへんおもねったもので。

自分は弱くて何もできない人間ですから、どうぞ、あなた、助けて下さい!
…そんな感じのものばかりだそうです。

そういう部分なんかを捉えてモーロワは、プルーストを愛を求め続けた人と表していましたが。

セレストの言に従うと、そこら辺がちょっとかわってきます。
セレストによると、そのやたらと他人におもねる様子は、プルーストの演技だったということになるのです。

セレストがプルーストと暮らした8年間において。
プルーストは自分の作品の完成のために、たくさんの人々を観察しました。
より近くで観察するため、彼等と親交を結びました。ただし、必要な期間だけ。
作品に使うための材料を彼等から得てしまうと、プルーストはもう彼等とは会おうとはしなかったそうです。

作品の材料集めのため、人々に近づくための演技が、愛を求める姿たったのですね。

まだ『失われた時を求めて』の構想すらできていない時代、プルーストが若く、社交界に出入りしたダンディであったころですら、セレストはプルーストの社交界遊びは、なんとなく将来を見越しての行動であっただろうと考えているようです。

…私も、そんな気がします。

やたらに愛を求めるだけの人だったなら、プルーストは『失われた時を求めて』なんて書かなかっただろうと思いますし。
それに、『失われた時を求めて』で表されている『人間』は、よっぽど客観的に冷徹に人間を観察した人でないと書けないと思うのですよねぇ。
愛されたいだけの依存体質の人が、こんなある種冷たい視線で自分との距離を保ちながら他人を眺めることができるものかどうか?私にはそれは無理だと思えるのですが。

それに、晩年のプルーストが手放さなかった女中兼秘書であるセレストですから、彼女はきっとプルーストが十分に満足できる程度にまた観察眼の鋭い賢い女性だったのだと思います。その彼女が、演技だろうと言っているのですから、それは正しいのではないかなぁと思います。

きっと外から見たら依存体質の愛を求める人間にしか見えないほどに、プルーストの演技は狡猾だったのではないでしょうかね。
側に仕えたセレストだけが見抜くことができた程に。



ええと、それからですね。
先にも述べましたが、この本はセレスト自らの執筆ではなく、セレストの口述をジョルジュ・ベルモンが整理したものです。
なので、当然ながら資料的価値は薄れます。
歪められている部分もあるかもしれません。

それに、プルーストはユダヤ系の家柄であり、同性愛者でもあり、時代背景を考えるとそれは負い目になります。

そんなプルーストを、セレストのようにまったく賛美してしまうのは…もしかしたら偽りはあるのかもしれませんね。
プルーストへの愛ゆえに。

『失われた時を求めて』でもソドムとゴモラあたりでは、かなり性的に刺激的な世界の描写がありますし。
プルーストの筆ですからそれが直接的で下品になるようなことはありませんが、生々しくはあります。
当時のお金持ちのプルーストさんですから、そんな世界にも簡単に出入りできたでしょうし。さてはて、実態はどうだったかは、謎ですね。
セレストはその辺り、同性愛的な傾向は否定しないものの、著作は全部ただ観察して研究した結果であって、プルースト自体が奔放な生活などおくったわけがないと否定しています。
(まぁ、私としてはそんなことどっちでもいいんですけどね。私がプルーストに認める価値は、『失われた時を求めて』の作者ってだけで絶対なものなのです。)

しかし、事実はわかりませんが、セレストがプルーストの側に仕え、プルーストを観察して見抜いてみせた彼の人間性の主たる部分は、彼女が語った素晴らしいご主人様像のプルーストってことに変わりはないのではないかと、私は想像します。













本書『ムッシュー・プルースト』は、プルースト研究の資料としてだけではなく、物語としてもとても面白い本でした。

プルーストとセレストの出会いから死別までの、主人と使用人の身分をわきまえた愛の物語です。

特にプルーストの死の場面は、油断していたら涙が出そうになるほどに感動的です。



そして、プルーストのお坊ちゃんぶりや優雅さ、人への優しさ、細かいこだわり、それから何より、彼がどれほど作品に全てをかけて情熱を注いでいたかなど、セレストの愛のこもった言葉をもって知ることができます。





良い本だと思います。
『失われた時を求めて』を読み終えた方はぜひ、この本も手にとってみて下さい。


















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