サミュエル・ベケット 著、大貫三郎 訳、『プルースト』を読みました。

1970年3月31日せりか書房発行の、せりか叢書6、です。
私の産まれる前の本ですね。
お値段¥450って裏表紙に載ってます、ハードカバーです。






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本のお供のクマちゃんは、私が22、3歳の頃、当時の同僚の女の子にもらったバースデープレゼントです。
突然もらったので、びっくりするやら、嬉しいやら。

忙しさにまぎれ、彼女とはもう連絡も途絶えてしまいましたが…
ずっと大切にしています。
懐かしい、ぬいぐるみです。





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難解です。



いや、読む前から難解だとは聞いていたのですが、それでもプルーストの批評ですし。
私、プルーストはすでに読んでいましたから、まぁなんとか読めるだろうと思っていたんです。




甘かった…。




一度、通読して、まずは頭を抱えました。

一体、これ、何が書いてあるんだ???

さっぱり、わからない。
『失われた時を求めて』の登場人物の名が出てくるから、その批評なことは解る。
でも、まるで理解できない外国語の中で、知ってる人の名前だけ聴き取れたような、そんなレベルです。
あまりに抽象的で。


それに、本文中、比喩がかなり多いんですが、その比喩がわからない。
なんの比喩なのだか解らない…以前に、私の教養では比喩そのものが何の話なんだかわからない…
ネットで検索してもでてこない…
(セルズィアンって何なんでしょうか、あとギディアンも何なのでしょうか?
結局わからないままなんですが。)

仕方ないので、意味のわからないところは、放っておくことにして。






とりあえず、訳者のあとがきを、注意深く読んでお勉強して。
二度目の通読に入りました。
一回読んでわからないなら、もう一度…ってわけです。
100ページくらいの厚さの本ですしね。


二度目は、本文を読む途中で訳注を見たり検索かけたりせずに、立ち止まることなくそのまま読むことができましたので、一度目よりは、朧げながらも理解できてきます。



どうやら、これは。
『失われた時を求めて』の表象的なことではなく、小説の沢山のテーマの中でも時間に関すること、時間の中の人間に関することを書いてあるのだな。





二度目の通読中。
ぼんやりと著者の言いたいことがわかってきます。
そしてこの評論の、熱気に、気がつきました。


この著作、実はものすごいエネルギーに溢れているんです。
著者が25歳の時のものだそうですが。
さすがに若い時に書いたものですね、凄まじい、濁流のような勢いを感じます。




あてられます。

そして。
あてられた私は…愕然としてしまいました。



「一体自分は『失われた時を求めて』を、本当に、読んでいたのか?」と。

私は、誰かのお話として『失われた時を求めて』を読んだだけなのです。
自分のお話として、読んでいなかった。
他人事のつもりだった。

そこに気づいて、愕然としてしまったのです。




本当は、『失われた時を求めて』は、私にとってとても恐ろしいことが書かれている小説、そして(プルーストにとっては)その救いを書いている小説だったはずなのに。
自分はそれを、誰かの話として。
自分は安全圏にいるものとして、読んでいた。
本当は、自分だって、渦中の人なのに。




『…そのなかに人間を描き込もう、たとえ彼らに怪物のような相貌を与えるという危険を冒したってかまわない、空間のなかではあんなにも控え目にしかあたえられていない場所に較べれば、はるかに大きな場所を時間の中に占めるので奇怪な相貌になるかもしれない、たしかに法外に拡がった場所なのだ、なぜといって、歳月に頭を突込んだ巨人たちのように、彼らは生涯のそれぞれの時期ーーーこんなにも多くの日々に隔てられたーーー時間のなかでこんなにも遠く離れたあれらの時期に、同時に触れるのだから』
本文中の、プルーストの引用です。


プルーストの小説の登場人物は、「人間」です。
この、時の中にまたがって存在する巨人は、私自らのことでもあるし、私の対象たる現実の人々のことでもあるのです。


なのに、私は自分に関係ないものとして、距離を置いて眺めていた。
自分の話なのに。自分の問題なのに。


安全圏でぬくぬくとテレビで中継でも観ていた気分の私を、ベケットは事件現場の真っ只中に放り込んでくれました。






こんな経験、中学生の頃、カミュの『異邦人』を読んだ時以来かもしれません。

ここには自分の物語が書かれている!







本当は、ベケットの『プルースト』を読む前に、プルーストの『失われた時を求めて』を読んだ段階で気づくべきことだったのでしょうけれど。


プルーストが小説の中に確かに書いてあったこと…小説として表していたことを、ベケットはこの『プルースト』でいきなり暴露してしまっています。
えげつないほど、直接に。

若いベケットの遠慮の無い批評、溢れんばかりのパワーにあてられて、嫌が応にも私もプルーストが描いた人間を真正面から見させられました。


こんな風に、顔面に叩きつけられるまで、時間の中に拡がる人間という怪物のようなもの…それはフィクションの世界のものとして、私は愚かにも喜んで鑑賞すらしていたのです。






冷や水を浴びせられたような気持ちで、3回目の通読。
そして、4回目。






時間、習慣、記憶。
『この双面をもち人を欺く、三重の、敏捷な怪物あるいは神聖からでてくるもの。時間ーーー死の道具であるという理由から復活の条件。習慣ーーー一方の危険な高揚に対立する限りでの処罰と、他方の残酷さを和らげる限りでの祝福。記憶ーーー毒薬と薬剤を貯えた、刺戟的で誘惑的な臨床実験室。』

時間の中で、私達は数え切れない自我をもちます。
時間ごとにある自我。
過去は通過したものではなく、私達の中にあって、数え切れない自我の一つとして、今も現に私達の中に存在する、私達自身です。
時間に拡がる人間、巨人、怪物、それが私達の姿です。

しかも、私達は時間に囚われた犠牲者なのです。
私達はリアリティを隠蔽されています。
私達のリアリティは、習慣によって隠され、記憶によって捻じ曲げられ、いつも手の届かないところにあるのです。

ただ、偶然に、古い習慣が死に新たな習慣が生まれるまでの間と、習慣が動きを止めた時だけ、むき出しの対象のリアリティに出会う。
そして、時たま現れる魔術師のような無意志的記憶が『即座の、全体的なそして気持ちのよい爆燃作用』によって『習慣やそれがつくった作品をすっかりなめつくしてしまう』ことで、私達自らのリアリティを取り戻すことができる。
どんなに頑張ったって、意志的記憶ではリアリティには届かない。





時間という拡がりの中に見ると、私達の大切なものの価値も暴落します。

愛はプルーストに従えば『心情に知覚されるものとなった時間と空間』。
愛する人は時間の中の出来事のつらなりであって、それは「人」というよりはもう事象です。

友情は『すべての人間が運命づけられている、あのとりかえしようのない孤独を否定すること』でしかなく、しかも『どんな伝達も不可能なところで、伝達をはかろうとする試みは、せいぜい猿のような俗物根性か、でなければ怖しく喜劇的』なもの。

『われわれはひとりぼっちなのだ。われわれは知ることはできないし、知ってもらうこともできない。「人間は自己から出てくることのない生きもの、他人を自分のなかでしか知らないもの、そしてその反対を主張すれば、嘘をつくことになるしろものなのだ」』










私達は、かくも孤独の中にいる、時間に囚われた犠牲者なのだ。

プルーストはそこから芸術によって逃れることができた。
ベケットは、この後、どうしたんだろうか?

そして、さあ、どうする?「私」は?






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感想文の体をなしてない文章になっちゃいました。

正直なところ、難解すぎて、私には理解しきれませんでしたのです、この本。


ただ、衝撃的ではありました。
一言でいうと、…エグい、です。





もっとお勉強してから、いつか『失われた時を求めて』と共に読み返してみようと思います。



私ももう、とっくに中年。
恥じらいの似合う乙女でもございませんから。
厚かましくも、恥はかき捨てとばかりに、記事アップしてしまいます。
ご容赦のほど…。
一礼、ペコリ。
















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