プラトン 著、藤沢令夫 訳、『メノン』を読みました。
岩波文庫の青です。



お写真、本と一緒に写したのはフェルトで作ったスイーツ達です。
スリーピンやブローチピンなどをくっつけてアクセサリーに仕立ててあります。
自分の姪っ子達にもプレゼントして、彼女達とオソロで使っています。
…年相応という言葉は私の辞書にはありません!




『メノン』はプラトンの中期対話篇の一歩手前に位置しているものだそうです。
初期対話篇には無かった、想起説と仮説をたてて問題を考察するという方法が出てきます。
でもまだイデア論は出てきていませんーーその準備段階にいるという感じです。




『メノン』の始まりはこうです。

メノンという人がソクラテスに「徳は教えられるものか?」という問いを発し、ソクラテスはその問いをそもそも「徳とはなんであるか?」という問いに置き換えます。

ーー何か(=徳)の性質(=教えられるものか否か?)を語るには、まずその何か(=徳)自体が一体何であるのかがわかっていないと不可能だからです。

メノンがそんなことは知っているとばかりに、あーだこーだ徳とは何かについて話す度に、ソクラテスによって否定されていき、最後は袋小路に陥って、結局徳とは何なのかわからない…ということになります。(初期対話篇のいつものパターンです。)





ここでの徳の考察、面白いです。
メノンが次々と挙げていくものは、徳の種類なんですよね。
例えば、男の場合についての徳や女の場合についての徳だったり、勇気・節制・知恵…なんて具合に。
でもソクラテスが求めるのは、そういった徳の種類の羅列ではなくて、それらに共通する同一の「徳」の定義なんです。

ソクラテスは例として、色や形を挙げていきます。
青、赤、白…なんていうのは、色の一種であって、「色」ではない。
直線、円形…なんていうのは、形の一種であって、「形」ではない。
同じように、「徳」についても考えろと。


(色って何か知ってる?形って何か知ってる?…なんて聞かれたら、何の疑問も持たずに、知ってるって答えちゃいそうですが。
色や形の例は挙げられても、「色」「形」自体の説明は難しいですよね。

ソクラテスの知に対する態度は非常に厳しいです。
私たちの「知っているつもり」をけして許してはくれません。
対話篇を読んでいると、自分が実際はいかに無知であるか思い知らされます。)


その後メノンは、それではと、色々と「徳」とは何かを説明しようとするのですが。
ソクラテスに、メノンが主張していることは結局は『どんな行為でも徳の部分をともないさえすれば、それが徳である』というまったく説明になっていない説明なのだと、指摘されてしまうのでした。






さて、袋小路に陥ったところでソクラテスは、それでも徳は何かという考察と探求を二人で続けるつもりだと力強く宣言します。

すると、メノンがここで意地悪な突っ込みを入れます。
その突っ込みとは、ソクラテスが言うには以下のようなことです。

『人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。というのは、まず、知っているものを探求するということはありえないだろう。なぜなら、知っているのだし、ひいてはその人には探求の必要がまったくないわけだから。また、知らないものを探求するということもありえないだろう。なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから』

この議論を打破するためにソクラテスが出してくるのが想起説です。

『人間の魂は不死であり、われわれは人間としてこの世に生まれてくる前に、すでにあらゆるものを学んでしまっている。だから、われわれは自分が全然知らないことを学ぶわけではなく、じつは「学ぶ」とか「探求する」とか呼ばれているのはすでに獲得しながら忘れていた知識を想い起すこと(アナムネーシス)にほかならないのである』(解説より)


この想起の具体的な例として、ソクラテスはメノンの奴隷の少年を使います。
ソクラテスはこの幾何学など何も知らない少年に、ちょっとした幾何の問題をその場においてメノンの目の前で学ばせるのです。

幾何の問題は、面積1の正方形から、2倍の面積を持つ面積2の正方形を作図させるものです。一辺が√2の正方形ですね。つまり面積1の正方形の対角線を一辺とする正方形が答えです。

少年は初めはそんなことは簡単だと思っているのですが、ソクラテスの誘導質問によって、実は自分が自然数しか知らなかったことに気づかされます。そして、幾何的に正しい答えにまで到達するのです。

そこでソクラテスは、得意げに、『誰かがこの子に教えたからというわけではなく、ただ質問した結果として、この子は自分で自分の中から知識をふたたび取り出し、それによって知識をもつようになるのではないかね?』と、想起説の確からしさを主張するのですが。

しかし、この、教えていない、質問しただけ…というのは、ちょっと…。
質問といってもかなり誘導的なもの、いやもう確認的なものですらありまして。
「これはこうではないかね?そう思わないかね?」
みたいな質問の仕方なんですよね。

乱暴にソクラテスを真似してみると、例えば、

ーーここに一つのリンゴがあるね?そうだね?
ーーここにも、もう一つのリンゴがあるね?違うかね?
ーー全体では二つのリンゴではないかね?
ーーということは1+1=2となるのではないかね?

といった感じで。

うーん、どう見ても、教えているようにしか見えないんですけれども…。



まぁ、それは兎も角、ところで、なんで人間は学ぶことができるのか?というのは、確かに不思議なんですよねぇ。
すくなくとも、論理語というものは人間の認識過程の中でアプリオリに認めるしかないと思うのです。
これがあるから、我々は因果関係を理解できるのだし…

じゃあ、論理語とは何なのか?それはどうして在るのか?それはどこからきたのか?
ついでに因果ってなんなのか、時間ってなんなのか?

あー、不思議!考えてると頭の中がこんがらがります。
イライラしちゃう。
誰かわかりやすく教えてくれないものかしら。
この私達のいる世界とは一体なんなんでしょうね?
とっても知りたい!でも、わかんない、わかんない、わかんないばっかり!
もーわかんないことだらけで、ムカつきます。プンスカ!



ところで、人間の認知過程において、プラトンが想起説を思いついたことで、後にイデア論のようなものがでてくるのは必然だと思います。魂がこの人生以前に「知っていた」のなら、その以前に「知っていた」のはなぜか?と、どんどん遡ることになりますから。
始原に何かしらもってくるか、あるいはループさせて誤魔化すかしない限り、始まりのものは謎になっちゃいますからね。

後のことはさておき、しかし『メノン』の時点においての想起説は、「知らないことを知ることはできない」なんて思考停止せずに、探求・考察を続けようと鼓舞するために使われているだけですが。




さて、想起説によって、さあもっと徳について考察を続けようと鼓舞したまではよいのですが。
メノンはどうしても初めの質問にこだわります。
徳は教えられるかどうか?
徳が何なのかわからないままに、あくまで徳の性質を答えろとソクラテスに迫るのです。

そこで、ソクラテスは仕方なく、仮説をたてて考察するという方法をとります。

(あ、ここでのやりとりもそうなんですが、メノンとソクラテスのやりとりは、まるで若くて可愛くって賢くってワガママな女の子(メノン)の無茶な質問に、いい年した優しいおっちゃん(ソクラテス)が嬉しそうにニコニコ答えているみたいなんですよ。さすが、古代ギリシア!女子の出る幕無し、美少年と美青年バンザイ!…な世界ですね(笑))


ソクラテスは命題を三つたてます。
『(ⅰ)「徳は教えられうるものである」
(ⅱ)「徳は知識である」
(ⅲ)「徳は善き(有益な)ものである」』
(解説より)

(ⅰ)を仮説し、それならば(ⅱ)であるし、(ⅱ)であるなら(ⅲ)である。
こんな感じでより上位の仮説へと考察を移していきます。

メノンとソクラテスは(ⅲ)を承認することによって、(ⅰ)を承認することになるのですが。

これ、一見正しそうですが、実は(ⅱ)と(ⅲ)に関しては、(ⅱ)は(ⅲ)であるためのただの十分条件なんですよね、(ⅱ)ならば(ⅲ)であっても、(ⅲ)ならば(ⅱ)ではないのです。

(ⅰ)と(ⅱ)に関しては多分、必要十分条件ってことみたいですけれど。

ですから、ソクラテスは徳は知識であるという(ⅱ)を結局は否認します。

ところが、この否認の仕方が、ちょっとまた首をかしげる感じなんですよね。


なんで、徳は知識ではないかというと。
徳を教える教師が現実には存在しないから(有徳の人物でも、自分の子供に徳を教えられていない例がたくさんある。ソフィストの知識はまがいものである。)だそうです。


ちょっと徳は知ではないといいきるには、根拠として薄いですよね。
これでは、今までは徳を教える教師はいなかったことしかいっていません。今後そういう教師がでてくる可能性はありますよ。

なんで、プラトンはこんな根拠薄弱なことを書いたのか?
このことについて、解説で訳者の見解が述べられています。

ちょっと長くなりますが、この見解については私も全面的に賛同しますし、ちょっと感動的でもあるので、引用します。

『われわれはプラトンの真意を、こう言うことができるであろう。ーー「徳は知である」というソクラテスの教えは真実である。真の知であるような徳こそが、唯一のほんとうの徳である。そしてそのような徳であってこそはじめて、ほんとうの意味で他に教えることのできるものである。しかし現実には、そのような真の徳=知をそなえた人は、これまで存在しなかったーーおそらくソクラテスその人をのぞいては。したがってまた、有徳の士といわれる政治家たちも、徳の教師を名のるソフィストたちも、ほんとうの意味で徳を教えることはできなかった。けれども、ソクラテスの説いた教えは、それが真実である以上、あくまでその実現に向かって努力されなければならない。それが哲学の指示する道である。』




さて、では、徳は知識ではないとすると、一体何なのか?

今度はソクラテスは「思わく」の概念を引っ張り出してきます。

知識によらずとも正しい思わくによって有徳の行為はなされうる(道案内をする時、正しい道順の知識をもっていなくても、テキトーな思わくでこっちの方だよって指さしたってそれが当たっていれば正しい案内になってしまう)と。

正しい知識も、正しい思わくも両方とも有徳の行為をなさしむるならば、(教師がいないからということで)徳は知識ではないということになったのだから、残りはこの思わくによるものだということになります。


で、この思わくはどこから来るかというと、神々だそうです。
…ここまできて、神々に投げちゃいましたね。



私が前に読んだ『プロタゴラス』でも、徳は教えられうるか?徳は何なのか?ということが、プロタゴラスとソクラテスのやりとりの中で考察されていましたが、なんだか序章で終わっているような感じでした。

今回は、神々に丸投げで、誤魔化されたような感じがします。





ここで、『メノン』は終了です。

あ、この本、訳者の解説も面白いですよ。
本文を読んでからの、とびっきりのデザート的なお楽しみです。









ところで、私、プラトンの対話篇群や、アリストテレスの二コマコス倫理学を続けて読んできて、やっと最近、ギリシア哲学における徳(アレテー)の言葉の意味がしっくりくるようになってきました。

徳って言われちゃうと、どうしてもね、道徳が思いうかんじゃいますから。日本人には、「アレテー」の訳としては、「徳」よりも「卓越性」のほうが本質を掴みやすい気がします。

ついでに、私、孔子の論語とか大好きなもんで、徳なんて言われるとどうしても儒教に引っ張られちゃうし。仁とか思い浮かんじゃうんですよねぇ。

…やっぱり数をこなさないと、変なバイアス取っ払って言葉の意味をつかむのは、難しいですね。





そして、さんざん、徳について読んでいるわりに、どうも私の興味はまっすぐに徳には向かいません。

徳というものの考察の過程こそが面白いのです。
やはり、私が求めているのは、倫理学ではなく、論理学のようです。

私は良き人間にはなれそうにありませんね。
ごめんなさい、プラトンさん。















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