プラトン 著、藤沢令夫 訳、『プロタゴラスーーーソフィストたち』を読みました。
岩波文庫の青です。
今回、本と一緒に写ってもらったのは、羊毛フェルトのウサちゃん達。
両方ともダイソーさんのキットです。
ただ両方とも、キットでは頭のみの作品だったので、身体は別に羊毛を買い足して自分で勝手に作りました。
プラトンの初期対話篇です。
表紙の文章によると、
「当代随一と仰がれるソフィストの長老プロタゴラスがアテナイにやって来た。興奮する青年にうながされて対面したソクラテスは、大物ソフィストや若い知識人らが見守るなか、徳ははたして人に教えられるものか否か、彼と議論を戦わせる。古来文学作品としても定評のあるプラトンの対話篇の中でも、とりわけ劇的描写力に傑れた一篇。」
だそうです。
うむ、なにやら面白そうであります。
さっそく読んでみましょう!
わくわく。
『プロタゴラス』は、ソクラテスが友人とちょっとしたノロケ話を交わしているところから始まります。
古代ギリシアですからね、ノロケの相手は美少年(or年齢的に美青年かな?)です。
ソクラテスはお気に入りの男の子が側にいるというのに、そのことを忘れてしまうくらい素晴らしい事があったのだと友人に話します。
それは、当代随一の知者プロタゴラスとの対話です。
友人はソクラテスに、ぜひその話を聞かせてくれとせがみます。
そしてお話が始まるのです。
この『プロタゴラス』はプラトンの対話篇の中でも、間接的対話篇と呼ばれるものです。
通常の戯曲のような、登場人物のやりとりをそのままに写すものは直接的対話篇と呼ばれるそうです。
それに対して間接的対話篇とは、ある人物がまずは登場し、その人物にソクラテスが過去の対話を話す…という形で書かれます。
いわば戯曲の二重構造ですね。
直接的対話篇と間接的対話篇、前者に対して後者が文学的技法としてより複雑であるのは当然として、その中で私が感じた大きな違いは、後者の場合は対話の最中にソクラテスのコメントが入り込んでくる点です。
間接的対話篇だと
『あいつがこう言ったから、俺がこう答えてやったんだ。というのもさー…』
の、『というのもさー…』という説明が入り込んでくるんですよね。
直接的対話篇では
『あいつ:こう言った。俺:こう答えた。』
だけです。
対話だけですと、ソクラテスのセリフはどういった意図で発せられたものか、こちらが推測しないといけません。
額面通りに受け取るべきかそれとも皮肉として言っているのか、本気で言っているのかからかっているだけなのか、好意からの言葉か嫌悪からの言葉か。
でも、そこにソクラテスのコメントが入ってくれると、随分わかりやすくなります。
まぁ、こちらが考える手間が一つは省けます。
ソクラテスの意図を誤解してしまう心配も一つ減ります。
さて、ソクラテスとプロタゴラスの直接対決の前に、まずは一クッションあります。
ヒッポクラテスという若者が朝早く、ソクラテスの家に押しかけてきます。
ヒッポクラテスはプロタゴラスに全財産を投げ出し、その上借金してでも、彼に教えを請いたいと騒ぎ立てます。
そのために、ソクラテスにプロタゴラスと話してもらいたいのだ、と。
そして二人はプロタゴラスが滞在しているカリアスという人の館に向かうのですが、館に入ってプロタゴラスに会う前に、ソクラテスとヒッポクラテスとの会話があります。
ソクラテスは言います
『そのプロタゴラスという人を、君は知りもしなければ、まだ一度も話をかわしたこともないと言う。ただソフィストと名づけるだけで、ソフィストとはそもそも何ものであるかについては、明らかに君は知らずにいながら、何もわかっていないその人に、君自身をゆだねようとするのか』
『これが学識となると…(略)…いったん値を支払うと、その学識を直接魂そのものの中に取り入れて学んだうえで、帰るまでにはすでに、害されるなり益されるなりされてしまっていなければならないのだ』
魂は人間にとってとっても大切なものだそうですから、その大切な魂の行方を左右するようなことを簡単に決めてしまってはならないと、ソクラテスは若者に注意するのですね。
ああ、そういえば、私がまだ中学生くらいのころでしょうか。
その頃、私は読書といえば父の蔵書から借り出して本を読んでいました。
当時、カミュとかカフカ、サルトルあたりが面白くて。
父の蔵書だけでは足りず、本屋さんでも買ってきて読みました。
そうこうしていると、他の思想にも手を伸ばしたくなってきます。
だけどねぇ、なんだか怖くって。
父のことは信頼しておりましたから、父の持っていた本の作者なら安心できたんです。
これは良い思想に違いないと。
でも、父の持っていない本の作者となると…。
その頃の私はまだ子供でしたから、なんだか実際以上に思想というものの力が強大なものに見えてしまっていたんですよね。
おバカでちっぽけな自分なんて、頭の良いおっちゃんたちの思想に飲み込まれて消えてしまうんじゃないかと感じていました。
影響を受けやすい年代ですしね、それが自分でもわかってましたから、兎に角、何でも読むのが怖かった。
洗脳されて、偏った人間になりたくなかったんです。
もっと言えば、狂気に陥らされるんではないかとすら、危ぶんでいました。
それこそ、間違った本を読んで魂を害されるのではないか、と怯えていたのです。
今ではそんなことはないですけどね。
私ももう大人ですから、たった一冊の本に自分を変えられてしまうほど、自分というものの礎は脆弱ではないと思っています。
…たんに素直でなくなって、ひねくれただけとも言えますけど。
話がちょっとそれてしまいましたね、『プロタゴラス』の感想に戻ります。
ソクラテスとプロタゴラスの対話のテーマは「徳は教えられるものなのか?」つまり「徳とは知識なのか?」ということです。
徳を教えると看板を掲げてお金を稼いでいるソフィストのプロタゴラスはもちろん是、対するソクラテスは否の立場から二人の対話は進んでいきます。
ところでこの対話、ちょっと面白いんですけど、対話が進むうちに、紆余曲折あって、気がつくと最後は二人の立場が逆転しているんです。
ソクラテスは徳は知識だと主張し、プロタゴラスはそれを認めたがらない…なんて状況に変化します。
結局、最後はソクラテスが
『すべてがこんなふうに上を下へとおそろしく混乱しているのを見ては、なんとかしてこれを明確にしたいと思わずにはいられません。そうしてできうれば、私たちは以上の議論ののちに、さらに徳とは何であるかという問題にも向かって行って、そのうえであらためて、それが教えられうるか否かを考え直してみたらと思うのです。』
なんて具合にまとめてしまいます。
一応、多分、プラトンとしては、遠回りして、ソフィストの言う知識が本当の知識とは違うってことを言いたかったのではないかなぁとは思いました。
でも、なんだか、尻切れトンボな感じというか。
徳とは本当は何なのか?真の知識とは何なのか?…という話のプロローグとして終わってしまっている感じですねぇ。
ここから、どんな話が展開して行くのか気になっちゃいます。
が、ここで、『プロタゴラス』はおしまいです。
ああ、そうそう、対話の展開の中で、ソフィスト批判もちゃんとありますよ、副題がソフィストってくらいですからね。
ソフィストのパロディみたいなこともソクラテスがやっちゃってみたり。
あとは善悪と快楽苦痛の関係の考察とか勇気という徳の性質の考察、などなど…。
この『プロタゴラス』、全体的にはとても読みやすいです。
最近読んだプラトンの中では一番読みやすかったかな?
それに、表紙にも書いてあった通り、文学作品、戯曲としてもたいへん面白い。
登場人物がとても生き生きとしていて、読んでいるとまるで自分もカリアスの館に集う若い知識人の中に混じって、プロタゴラスとソクラテスの対話を聞いているような気持ちになります。
あともう一つ感じたこととして…、これはこの『プロタゴラス』だけのことではないのですけど。
プラトンの著作の中でソクラテスはソフィストをいつも批判しています。人々を言葉で煙に巻く、詭弁を操ると。
でも、ねぇ、対話篇を読んでいると、誰でも思うのではないでしょうか?むしろプラトンの方が詭弁家に見えるんですよね。
まぁ、物事、なんでも突き詰めていけば袋小路か極論に落ち入りがちですし、言葉で言葉を突き詰めて行くとそれは一見言葉遊びに近いものになっちゃうし、そうなるとそれは詭弁に見えてしまうのかなぁ。
んー、モヤモヤします。
これは、ソフィストがどういうものなのか、もうちょっと知りたいです。ソフィストを批判する立場からでなく、肯定する立場から書かれたものも読んでみたい。
他にも、この『プロタゴラス』について書きたいことは山積みなんですけど、もう終わりがないので、この辺でやめておきます。
いくつかプラトンの対話篇を読んできて、その対話篇自体について思うこととか。
アリストテレスと比較して思うこととか。
…あったりするのですけど。次の機会に譲りましょう。
どーせ、またプラトンは読むだろうし、そして感想を書くだろうし。
哲学書の感想って書きづらいですね。
以前に書いた『ニコマコス倫理学』の時もそうだったのですけれど。
思うことがあまりに多すぎて、何をピックして何を削るか、取捨選択が悩ましいし。
色んな考えが自分の頭の中で錯綜して、なかなかまとまりがつかないのです。
頭の中をきちんと整理できる人になりたいです。ふぅ…。
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