アリストテレス著、高田三郎 訳、『ニコマコス倫理学』上下、を読みました。
著者名・訳者名に、ニコマコス&テオフラトス編…ってのも付け加えた方がいいのかも。アリストテレスの死後に整理されず残された講義の手稿を、彼らが編集したそうですから、本の構成には彼らの意図も深く関わっているわけです。
写真に登場してもらったのは、ソックモンキー。
一時期ハマって、たくさん作ったうちの一匹です。
おリボンとヒラヒラエプロンがご自慢の、オシャマさんです。
アリストテレスの哲学書、邦訳原典です。
…哲学書を読むのは体力を使いますね。
岩波文庫で上下二冊、両方とも300ページくらいかな?
本自体はそれほどのボリュームではないのですが。
わからない言葉の意味や読めない漢字を辞書で調べつつ、理解できないところは何度も読み返し、それでもわからない時は解説本を引っ張り出してきて該当ヶ所を読み、ネット検索もかけ、メモなんかもとりつつ、関連文献も手持ちのものは参照し…
なんてやってると、実際はもう一冊分くらいの量の字数を軽く読んでしまいます。
しかし、「そこまで頑張って読んだのだから、さぞよく理解できただろう?」と問われると…「正直、あんまりわかりません。」と答えざるを得ないです。
当然ですね、この本一冊をよく理解できるくらいなら、私は今頃立派な教授にでもなって教壇からピシピシ学生を指導していることでしょうよ。
私程度の知識と知性を持ってして、一読して理解できるような本ではありません。
が、それでも、自分なりに思うことはちゃんとありました。
今回、私は初めてアリストテレスの原典(邦訳)にあたりました。
ただ、有名すぎる人ですからね。ギリシャ哲学の解説本なんかで彼の哲学の解説は何度も読んでいます。
原典(邦訳)を読んでのまず一番はじめの印象は、アリストテレスの著作は『読める』、ということです。
…哲学書、特に原典(邦訳)には、素人が生半可な気持ちで挑戦しても全く歯が立たないものが多いですからね。そういった意味で、少なくともプラトンあたりが『読める』人なら、アリストテレスもいけます。
当然難解ではあります。が、ゆっくりじっくり考えながら読むと、それなりにけっこう楽しく通読することができると思います。
何書いてんだかサッパリ意味がわからん、つまんない…なんてことはありませんよ。
例えば、本の中でアリストテレスは様々なことについて考察していますが、私は特に「愛(フィリア)」それから「快楽」についてあたりの考察はかなり面白く読むことができました。
二番目に感じた印象は、「意外と実践的なことを書いてあるなぁ」(くだけた表現なら、「けっこうゆるいなぁー、現実的だなぁー」)、ということです。
倫理学と冠された本ですから、良き人間とは何か?良く生きるとはどういうことか?そして良き人間として良く生きるためにどうすればいいのか?みたいなことが考察されています。
(ここで注意しておくべきことは、良き人間、良く生きる、共にあくまで古代ギリシアのポリスにおける自由民において、のことだということです。
私達の社会とはかなり価値観の違う世界での、良き人間、良く生きる、だということを念頭に置いておかないといけません。
でも、いくら時代も文化も科学の発達程度も…色んなことが違っていても、そこは同じホモサピエンスという同種の動物の考えることですから、柔軟な想像力をもってして理解できないことはないはずですし、学ぶべきこともおおいはずです。)
その考察の態度なんですが、
「おおよそのことがらを、おおよその出発点から論じて、同じくおおよその帰結に到達しうるならば、それをもって満足しなければならない」(第一巻第三章より)
なんて書いてあります。
無茶な綺麗事は書かれていないんですね、あくまで実践できること、が書かれています。
こと倫理的なことに関しては、完璧は神々の領域のお話、人間は人間の世界で頑張ろうぜってことですかね。
三段論法のアリストテレスとは思えない現実的でフレキシブルな態度です。
さすがに、ただの生真面目な人ではありませんね。
以上二つがまず初めに感じた、私の『ニコマコス倫理学』への印象です。
以下、『ニコマコス倫理学』の内容にそって、私なりに思いついたことを書きとめてみます。
本の最初の方で、そもそも「良い」とはなんぞやってことで、「善」の考察があります。
アリストテレスは「善」には種類があって、それぞれの善には順位があると書いています。
泥棒さんがお金盗んでウハウハすることだって、当人にとっちゃぁ良いことですし、一方例えば慈善事業に寄付することも良いことです。
でもこの二つの良いこと、やはりどう考えても、後者の善は前者の善より、より良き善ですからね。
そこから、「では最高の善とは何か?」となります。
「「人間というものの善」とは、人間の卓越性(アレテー)に即しての、またもしその卓越性が幾つかあるときは最も善き最も究極的な卓越性に即しての魂の活動である」(第一巻第七章)
「「常にそれ自身として望ましく、決して他のもののゆえに望ましくあることのないようなもの」は、これを無条件に究極的であるという。しかるに、かかる性質を最も多分に持つと考えられるのは幸福(エウダイモニア)である。」(第一巻第七章)
つまりは、人間にとっての最高善=幸福(=最も望ましいもの)とは、究極的なアレテー(卓越性=徳)に即してプシュケー(魂)を活動(エネルゲイア)させること…ってことでいいのかな?
この辺り、正直、私にはピンときません。
文章の意味は追っていけます、文章自体はそれほど難しいわけではありませんから。
ただ、私にとっての問題は、言葉の意味、です。
アレテーとかエネルゲイアとか、いくら辞書をひいても、ピンとこないんですよね。
仕方ないので、日本語の徳とか活動とかの意味を部分的に含みつつも、それとはちょっとズレている、その上違う意味も持ち合わせている言葉…という、しごく曖昧な概念を想像力で作りあげてそれをもってして読み進めていきました。
そもそも他言語の言葉を日本語の言葉にそのまま置き換えることは不可能です。
例えば英語の単語attendは、出席する・世話する・注意を払う、なんて訳します。文脈によって、まったく意味の異なる日本語訳を選ばなくてはいけない。
しかし、三つのうち一番適する一つの意味を選んでも、本当のattendの意味を日本語に写すことはできません。
attendはad-「〜へ」という接頭語と、ラテン語のtendere「伸ばす」から出来ている語、つまり「〜へ向けて(心を)伸ばす」というところから「(〜へ向けて心を伸ばすから)出席する・世話する・注意を払う」って意味が生じている訳です。
語源を見れば、日本語訳ではバラバラに見えていた三つの意味が根っこの部分で繋がっているのがわかります。
母国語のある言葉を使うとき、この言葉の意味の根っこの部分を私達は必ず引きずっているはずです。母国語として言語を自由自在に操る際に、この言葉の根っこの隠された引きずられた部分は、言葉の連なりである文を有機的に組み上げるのに、一役かっていると思います。
言葉は根っこの意味を引きずり、時代により場所により人によって、左右にぶれて新しい意味を生み出しているイメージです。その上その根っこもまた、言葉ですからぶれています。
とても曖昧です。その曖昧さが言語の有機性を生んでいると、私は思うのです。
そんな曖昧な言葉の意味というものを辞書の文章を読んだだけでは理解できるはずもないのですよね。同じ日本語同士ならともかくも、はるか遠き古代ギリシアの言葉を日本語で説明するのですから。
ならば、どうやって言葉の意味を捕まえるか?
…となると、これは、もう子供が言葉を覚えるように身につけるしかないと思います。
その言葉が使われている場所をたくさん読み、文章の中に浮かびあがってくる意味を帰納的に捕まえるしかないのではないか?と。
要は、何度も読め、同じ作家の他の著作も沢山読め、同時代の他の作家の作品も読め、ついでに当時の文化や宗教も学習しろ…てことですね。
…励みます、とほほ。
次に、ではアレテー(徳)とはなんぞや?と、様々な種類の徳についての考察がつづきます。
色んな徳がありますよー、勇気ですとか温和ですとか情愛ですとか…
さてこの徳、アリストテレスは、中庸が徳だといっています。
中庸ときくと、孔子を連想させますね。
例えば羞恥について、これは超過すると引っ込み思案に、不足すると恥知らずになります。
ちょうどいいだけ羞恥を持つなら、それは恥を知るという徳になるのですね。
注意すべきは、中庸といっても、別に徳は不足・超過の中央には位置しないこと、不足から超過にいたるうちでもっとも良い量、至頂の場所が徳なのです。
私はこのアリストテレスの徳という概念を、グラフにして思い浮かべました。
横軸に ←不足 超過→
縦軸に ↓悪 善 ↑
このように次元をとると、グラフは凸型になります。
そして、極大点は不足・超過の中央ではなく、徳の種類によって、また同じ徳でも時と場合によって、上下左右に移動します。
また、不足・超過の最大値における縦軸の値も同様に変化します。
グラフは常に凸型ではありますが、その凸は山型だったり、への字型だったり、逆への字型だったりするわけです。
こうやってグラフ化するとアリストテレスのいう徳が理解しやすいと思ったのですが、どうでしょうか?
「アレテーに即してプシュケーをエネルゲイアさせる」…これは、うまくグラフの頂点を見極めて徳をつかみ、それによって行動せよ…ってことなのですかね。
これがアリストテレスのいう良き人間の良き生き方なのかな?
ところで、良き人間とは?良く生きるとは?は、結論されましたが、ではどうやってそれを実現すればよいか?という点については、アリストテレスは習慣と教育だといっています。
いいことをやっていれば、いい人になれる。
悪いことをやっていれば、悪人になる。
この辺りも、とても実践的な考え方ですよね。
とても人間という生き物に即している考え方だとおもいます。
さて、アリストテレスは、
「「人間というものの善」こそが政治の究極目的でなくてはならぬ。まことに、善は個人にとっても国(ポリス)にとっても同じものであるにしても、国の善に到達しこれを保全することのほうがまさしくより大きく、より究極的であるとみられる」(第一巻第二章)
なんてことも言ってます。
この『ニコマコス倫理学』は『政治学』に実質的に繋がっていくそうです。
この辺り、いかにも古代ギリシア人的考え方ですね。
良き人間=良きポリス人です。
最高善=幸福が国に関するものならば、魂を活動させるのは国に関することになります。
つまり政治的なことがら、ですね。
この『ニコマコス倫理学』、他にもたくさんの事が書かれています。
快楽や愛についての考察、イデア論への反旗…などなど。
長くなりすぎますから、一々の感想は書きませんが、どれも面白く読めます。
本の後ろの方で、愛についての考察を行っているのは、そこから生まれる人間の共同体への考察=『政治学』への橋渡しなんでしょうね。
哲学書、私は自己啓発書として読むのはあまり好きではないのです。元来、私はズボラな適当人間ですから、啓発なんてされたくないのです。
啓発なんてされて、明日から良き人間になっちゃったりしたら、お掃除やお片づけに励むハメになるかもしれません。
とんでもないことです。いやです。やりたくありません。ほっといて欲しいのです。
私は、単に、なんていうんでしょうか、思考のお遊びとして、ちょっと小難しいことを弄ぶ、くらいのゲーム感覚で楽しんで読んでいます。
その態度に真剣さや切実さはまったくありません。
頭の使い方は違いますけど、哲学書を読む楽しみは、チェスの対局をする楽しみと同じような感覚ですね。
この『ニコマコス倫理学』、一読して内容を覚えているうちに再読に入るのがより良い理解に繋がるのでしょうが…
ちょっと今は違うものが読みたいですねぇ。
最近、妙に古代ギリシアに惹かれるので、次もその時代に関連したものを読もうかなと思います。
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