今日は妊活とも育児とも関係ないことです。



わたしはC-C-Bというバンドが大好きなのですがその感覚はわたしの同年代だと割と「?」な感じで私は完全なる後追いC-C-Bファンです。


子供の頃、わたしはひどい喘息で秋になるとなぜか悪化して吸入しても効かず数年に一度は入院する虚弱児童でした。

1989年の秋もそうで、当時小学3年生だったわたしは1週間くらい入院生活を送っていました。

小児科病棟はなく、なぜかわたし以外全員お婆さんの6人で同室でした。お婆さんたちはいつもおしゃべりしていてうるさく、私は家から家に1台しかなかったラジカセを持ってきてもらってイヤホンでラジオを聞いたり、テレビの音声だけを聞いたりしていました。(当時のラジカセはどういう仕組みか謎ですがテレビ音声が聞けたんです。)

喘息は病院で管理下に置かれればなんともない感じだったのでずっと寝ているのも苦痛で平日は親が面会に来てくれて夕方までいてくれたので親とおしゃべりもできたけど、日曜は面会が禁止で一日中イヤホンが友達でした。

テレビの音声をラジカセで聴くことができるので親に週間TVガイドを持ってきてもらっていました。番組をチェックするのが毎朝の日課でした。

日曜日、いつものようにテレビ欄をチェックするとTBSのお昼頃の欄に「C-C-B解散コンサート」の文字が。

それまでもベストテンやミュージックステーションをいつも見ていたのでC-C-Bの存在と曲はいくつか知っていたのですがメンバーの名前などは知らなかったので解散しちゃうんだ、最後だしコンサート聴いてみよう、というような軽い気持ちで部屋でイヤホンで聴くことにしました。

今思うのは解散コンサートをテレビで放送してくれるって(後から知ったことですがテレビ放送は全編ではなく1時間だけのダイジェスト番組でした。)すごいことだな。やっぱりC-C-Bは人気だったんだな、ということです。

放送時間になって、イヤホンで聴き始めたのですが知らない曲ばかりでした。わたしはテレビでヒットしたシングルの曲しか知らなかったのでライブで主にやるアルバム曲や後期のシングル曲は一曲も知らなかったのです。それで聴いてるだけではつまらなくなり部屋を抜け出してロビーのテレビで見ることにしました。

日曜は外来診察が休みなのでロビーは薄暗くテレビも消えています。もちろん誰もいません。

でもテレビはそこにしかありませんでした。

果たしてそんな中テレビをつけていいものか迷いましたがドキドキしながらテレビをつけ、バレないように音を小さくしてC-C-Bをはじめてちゃんと見たのです。

わたしの知ってるC-C-Bはアイドルだと思っていましたがテレビに映っていたのはバンドマンでした。なので、あれ?これってあのC-C-Bとは違う?と一瞬迷いましたがドラムの人がメガネをかけていたのでやっぱり同じC-C-Bなのか、と納得しながら見ていたのですが、当時は名前も知らなかったドラムの笠浩二さんの魅力に吸い込まれてしまったのです。気になって気になって仕方なくなってしまいました。

心臓がドキドキしていました。

隠れて見てるからのドキドキなのか。でも私がこのドラムの人のことが気になってしまうのを誰にも知られてはいけない。

そんなふうに感じ、誰かの足音が聞こえてくるとバッとテレビのスイッチを切って自分がこれを見てるのをバレないように急いで病室のベッドに戻りました。

しばらくまたイヤホンで聴いて、そしてロビーのテレビを見に行く…を数回繰り返してるうちにテレビ放送は終わってしまいました。確か1時間程度の本当に短いものでした。

ただ、私はその後ドラムの人のことが気になって気になって、まだ小学生でお金もなくレコードもCDも雑誌も自分で買ったことがなかったのでどうやってテレビ以外で解散後のその人の情報を得るかなんて知る由もありませんでした。


9歳の小学3年生だったわたしはいつかすっかりドラムの人の事が気になったことも忘れてしまい、時が流れて中学生になった頃、1993年にテレビの「ベストテン同窓会」という番組で4年ぶりくらいに彼らを目にすることになるのです。

そして、その時初めてメンバーそれぞれの名前を知ることができました。

あの時気になってしかたなかった気持ちが4年間分急に思い出して膨らんで溢れ出したかのように湧き上がり、このドラムの人はリュウさんていうんだ、今もメガネをかけているんだ、わたしはこういう人が好きなんだ、とその時リュウさんのことが好きだと認識したのです。

当時、番組効果もあり一時的にC-C-Bが話題になったのか彼らが所属していたレコード会社のポリドールはC-C-Bのかつてのアルバムにシングル曲をプラスしたCD復刻版を出してくれたのでわたしは一気にそれを買いました。貯めていたお小遣いやお年玉を注ぎ込んで大人買いしたのです。

その姿を見て母は

「C-C-B?懐かしいねー、お母さんは関口誠人が好きだったよ」

と言っていました。今だからわかりますがやはり関口誠人さんには他のメンバーより大人の女性の心を掴む魅力があったのですね。

わたしはリュウさん一筋、でした。

リュウさんの名前が笠浩二という漢字だということもこのころ知りました。


また時が流れて高校生になりアルバイトするようになったので財力をつけた私は今でいうメルカリみたいなものの雑誌版「じゃマール」というリクルートが出していた売ります買います雑誌でC-C-Bの切り抜きやら写真集を買い漁り、中古レコード屋で彼らのレコードを探しました。復刻したCDアルバムは手元にあるけれどやはりオリジナルのレコードのジャケットがどうしても欲しくて神保町や高円寺など中古レコードのメッカと言われるところによく行きました。

「瞳少女」のココナッツボーイズ時代のジャケットを見つけた時は顔馴染みになっていた店主に「これは将来売ったら10万だよ」と言われたものです。(その日に4000円くらいで買いましたが)あれから25年経ちましたが10万にはなって…ないかな?

これです。


高校の時の友達は音楽好きが多く、パチパチやGBなど皆好んで読んでいて、ライブハウスでバイトする子、バンドの追っかけをする子など良い友達に囲まれわたしが時代遅れのC-C-Bのファンでも誰も馬鹿にすることなくむしろいろんな情報を仕入れてきてくれました。

中にはおもしろ情報もあって

1996年頃には

「笠さんて越谷で赤帽やってるらしいよ」

と友達が教えてくれました。

赤帽?音楽じゃなくて?と当時は驚いたものですが真偽は今もわかりません。

そして極め付けは1997年頃、同じ高校の1学年下の後輩が笠浩二プロデュースで歌手デビューしたのです。

この時は我ながら引き寄せの力があるんじゃないかと思ってしまったほどです。

そのデビューした後輩と同じクラスに友達がいたので実際にアイドルになった後輩に話に行ったこともあります。

「笠さんてどんなひと?!」と興味本位で聞いたけど

「え?普通のおじさんだったよ。一回しか会ってない」

とも…。

アイドルプロデュースってそんなものなのか?


そしてそのころからインターネットが各家庭にも広がり、我が家にも馬鹿でかいモニターのパソコンと共にWindows95がやってきました。

電話回線なので日中インターネットを使うと電話がその間できない。そして電話代も高いので23時〜5時まで定額のテレホーダイというプランで深夜にインターネットを楽しみました。パソコンは父の部屋にあったので家族で皆で集まって夜にやる、みたいな感じでした。

そこで私が最初に調べたのがC-C-Bのことでした。するとC-C-Bのことを語り合う掲示板があったのです。なんと!もう20世紀最後の私の大発見だと思ったほどです。

C-C-Bのファン層は自分の7〜10歳くらい上が多いとその時知りました。

そしてメンバー個々が今もそれぞれバンドやソロで活動していること、メンバーのプライベートのこと、いろいろそこで情報を知り自分も書き込みするようになり、個人的に連絡を取り合う方もできました。ラジオのテープをダビングしてもらったり、1歳上のやはり後追いの女の子と仲良くなり毎日3時間くらい電話する仲になったりこの掲示板で日本全国のファンと繋がれました。

仲良くなったお姉さんが関口誠人さんのライブに誘ってくれて1997年高校2年の時初めて四谷フォーバレーという今はもうないライブハウスに関口さんのライブをその方と一緒に見に行きました。

あの憧れのC-C-Bの人がこんなに近くに!

という驚きは一生忘れません。

その後も関口さんはよくライブをしていたので足を運び、ゲストに英樹さんが来たりしてしじみが結成されたそのときもまさにライブで目の当たりにしていました。

関口さんにも英樹さんにも会えた。

そしてライブ終演後にツーショットで写真も撮れた当時。関口さんは携帯番号を公表していて日曜日にはかけていいことになっていた。学校の定期試験前には直筆で「頑張って!」とメッセージももらえた。英樹さんちのお米屋さんにもときどきおにぎりを買いに行くようになった。



こんなに近くで憧れの存在に触れることができるようになったのに、笠さんには、いちばん気になっていた笠さんにはまだ一度も会えていなかった。