モモコは幻影を見た。
恐ろしげな表情で睨みつける魔物の後ろで
一本の樹木が恐るべき速さで成長していた。
細い幹が見る見る間に太くなり、枝を生やす。
緑の葉が生い茂り、背後から魔物を包み込んでゆく。
背は魔物をはるかに越えていた。
上から右から左から、枝が伸び魔物を取り込んでいく。
魔物はまったく気づかず、怒りに満ちた視線をモモコに向けていた。
枝が魔物の前に回り、葉が胸元に触れたとき
魔物ははじめて気づいた。
だが、すでに手遅れだった。
複雑に絡まる枝は退路を断ち、葉がその姿を隠していく。
やがて魔物の姿は完全に見えなくなったが
それでも樹は成長を止めなかった。
風に揺れる深緑の葉の影から
茶色い枝がまるで生き物のように蠢いている。
一瞬、魔物の手が突き破って外に出たが、枝が鞭のようにしなり
それをも絡め取ってしまった。
薄れる意識の中、モモコは最後に魔物の断末魔を聞いた。
意識を取り戻したモモコの目に飛び込んできたのは、木目の天井だった。
上半身を起こすと、額から濡れた布が落ちた。
正面にベッドの上で寝息を立てるミヤビと
その側に腰掛けるマーサの姿があった。
「あっ、気づいた?」
マーサはモモコに顔を向けると片頬を上げて微笑んだ。
立ち上がりイスを掴んでモモコに近づく。
傍らに腰を下ろすと、横になるよう促した。
「どうなったの?」
モモコが訊ねると、マーサは布を桶で濡らしながら答えた。
「倒した。モモのおかげさ」
布でモモコの汗をやさしく拭うと、マーサは折りたたんで額に乗せた。
雨が上がった後、攻撃しようと手を伸ばしたしたマーサの目に
あるものが釘付けになった。
それは、切り株に芽吹いた一本の芽だった。
「思い出したんだよ、ウンディーネは水の精霊だって」
マーサはあの戦いの中で、ずっと疑問に思っていたことがあったと言う。
──それは、なぜサーミヤがあの場所から一歩も動かないのか。
動かないどころか、こちらが攻撃の意思を示さないかぎり呪うこともせず
まるで体力を温存するかのように、聖樹の切り株の上でうずくまっている。
師団長の話では、森に近づいただけで発病した者もいるにも関わらずだ。
「あれはね、精霊の復活を予期してたんだと思うね」
今から思えば、マーサの実力で
あれほどの雨を降らせることができるはずがない。
水の精霊の助けがあればこそだと、マーサは苦笑いを浮かべた。
「じゃ、サーミヤじゃなくて、その後ろを狙ったのは…」
「切り株に新しく生えた芽だったわけさ」
精霊が復活する確証はない。
それにあれほどの降雨を跳ね除けた魔力だ
サーミヤが気づけば抑えつけられる可能性もあった。
だが、マーサたちの攻撃に怒り狂ったサーミヤは我を忘れ
彼女たちを駆逐することに神経を集中した。
その結果、サーミヤは精霊の復活を赦してしまった。
「モモ、見たよ…あれ幻じゃなかったんだ……」
モモコは気を失う前に見た光景を語って聞かせた。
話が終わると、マーサは寂しそうな笑みを浮かべた。
「ウチが目ぇ醒ましたときね、サーミヤも、ウンディーネも、魔力残ってなかった」
通常、倒木した精霊の宿る樹は魔法の杖や
質の悪いものは魔法の砂に加工されるのだが
聖樹は魔法の砂にも使えないほど、魔力を使い果たしていた。
早晩あの森は消滅するだろうと、マーサは切なげに呟いた。
水脈を支えていたのは、精霊の力だからだ。
「森全体の命を賭けてモモたちを助けてくれたんだね」
そう言って顔を曇らせるモモコに
寂しげに微笑んでマーサは彼女の手を取った。
ふと顔を上げると、モモコは辺りを見回した。
「あれ、キャプテンは?」
サキの姿が見えない。
モモコが訊ねると、マーサは空のベッドに顔を向けた。
「サキちゃん一番最初にヤラれちゃったじゃん。
だから一番重症だったんだけどね」
魔物を倒したことで、呪いからは開放される。
だが、病によって奪われた体力まで回復するわけではない。
モモコの顔が青ざめる。──もしや、キャプテンの身に…
が、振り返ったマーサの顔には、笑みが浮かんでいた。
「サーミヤ倒したって言ったら
起き上がって『報酬の話してくる』って言ってさ
走って師団長さんトコ行っちゃった」
── 完 ──