ほんとうに、めんどくさい文章を書いている。

わかりみが深い。自分だから当たり前か。


結局、私は褒められたいし他人の評価がほしかったのだ。

そのことを12ステップ・プログラムで棚卸ししてきて、よく理解した。

私は他人に認められる「正しさ」にこだわった。

私は、他人から見捨てられるのが不安だったから、こだわった。


より、以下抜粋。


「楽しませなくては、いい気分にさせなくては、好かれなくては、正しくなくては、優しくなくては、魅力的でなくては、、、


『私は見捨てられてしまうのではないか?』


と不安だから、取り繕い、道化を演じ、自分自身そのままでは、他人に相対することができませんでした。


その結果、『ほとんど交流のない緊張した環境を生み出し』、アルコールで脳を麻痺させなくては人と交流できないほどの耐えがたい緊張を自らに与えていたのです。」




こんなものほしくない、と言い訳をしながら、どうしてもほしかったのだ。承認や称賛が。

認めよう。
私は当時、褒められたかった。

しかし、褒められようと褒められなかろうと、結果が出ようと出なかろうと、私は何人からも否定される存在ではないことに、今は気づけました。


以下抜粋。

忌まわしい管理者である親や先生も、また人なり。


彼らもまたどうしようもなく不完全で矛盾した人間であり、正しさの権化ではないのだ、と知ります。


「役割」として正しくあらねばならないと虚勢を張っていた、彼らの苦しさや弱さについて確認すると、そのような「管理者」に対して、私は必要以上に恐れる必要はない、という安心感を持つことができます。


すなわち、私の自己評価について、彼らは決定権を有していない、という安心感です。


私は彼らに認められなかったからと言って、自分の評価を落とさなくてもいい。


つまり、どれほど権威ある人が否定的な評価を下したとしても、私には直接的には何の関係もないことで、「私は生きていないほうがいいのかもしれない」と思い悩まなくてもいい、ということです。



私は認められ、褒められ、評価されなくては安心できなかった。

それは「生きていてはいけないのではないか?」と不安になるからだ。

それは、親が私にできる以上の期待をかけてきたこと、つまりAC(アダルトチルドレン )の問題に起因していた。


今でもやはり、会社の売り上げで横並びになった同僚より数字が悪かったりすると、ザワザワする。

仕事の評価は、わかりやすい。
インスタントに依存の渇きを癒すことを勧め、見せかけの幸せをチラつかせてくる。

私は、それを否定せず脇に置いておいて、心を揺らすことなく眺められるようになりたい。

徐々にその理想に近づいていると思う。

仕事という承認欲求を満たす活動。
あれらで得られる一時的な満足は陽炎のようで、摂れば摂るほど欲しくなる中毒性があるものだ。

大切なものを見失う。
欲にコントロールされることになる。

大事なことは、私は小さい頃、生き延びるためにそのように背伸びをして頑張ってきたが、今はもうそんなふうに自分をすり減らして承認や賞賛を得る必要はないのだ、ということ。

大事なことは、私は小さい頃、生き延びるために正しくなくてはならなかったが、今はもうそんなふうに自分の感情を塗り潰してまで正しさに拘らなくてもよいのだ、ということ。


私はもう、果てしなく自由なのだ。

褒められるために我慢しなくていい。
正しくあるために我慢しなくていい。

息をする。

息を吐く。

大丈夫だ。視界は開けている。