実は私はアニメやゲームが結構好きです。

 

大学時代は新作ゲームソフトの発売日を心待ちにしすぎるあまり、発売日に行われていた大事な科目のテストをすっかり忘れて家でゲームに没頭し、単位を落とし、後日ゼミの教授にこっぴどく怒られた経験があります。

 

ゲームやアニメの世界観や登場人物の心情の変化、映像の見せ方や音響の細やかな演出などが大好きで、「なぜこういう配色・配置・間・シナリオ構成にしたのだろう?」というようなことを考えながら作品を見ていました。

 

大学時代に出会ったゲームで、忘れられないゲームがあります。

 

それは、『沙耶の唄』というPCゲームです。

 

 

18歳以上でないとプレイできない内容のゲームですが、ただのエロゲーではありません。

 

監督の虚淵玄という方は本当に観ているものを「いい意味でどん底に落とす」ことにおいてピカイチの鬼才です。

彼がシナリオ構成する作品で幾度心を揺さぶられたことか・・・数え切れないほどです。

 

『沙耶の唄』公式HP あらすじ

 

それは、世界を侵す恋。
爛れてゆく。何もかもが歪み、爛れてゆく。
交通事故で生死の境をさまよった匂坂郁紀は、いつしか独り孤独に、悪夢に囚われたまま生きるようになっていた。 彼に親しい者たちが異変に気付き、救いの手を差し伸べようにも、そんな友人たちの声は決して郁紀に届かない。 
そんな郁紀の前に、一人の謎の少女が現れたとき、彼の狂気は次第に世界を侵蝕しはじめる。

沙耶の唄|ニトロプラス Nitroplus http://www.nitroplus.co.jp/game/06-song-of-saya/saya.php より

 

この作品を最初にプレイした日、肉が食えなくなりました。笑

 

思えば私のグロ耐性はこの作品で付いたのかもしれません。

 

とにかく、主人公フミノリから観える世界が絶望的にグロい。グロ過ぎる。

こんな世界になってしまったら、私ならとっくに狂っているだろう、と思うくらいです。

 

医学部大学生のフミノリは、事故で脳に障害を抱えてしまい、親友が、病院のベッドが、道路が、部屋が、全てが肉塊のようなグロテスクな見た目と悪臭を放つように「視えて」しまうようになってしまいます。

医学生として医学に通じていて、自分の脳の損傷はもはや現代の医療では改善できない外傷とわかった彼は、研究対象として扱われるわけにはいかない、と絶望を押し殺し周囲には自分の眼に見えている「世界の視え方」は胸に秘めて苦痛に耐え忍んでいました。

そんな狂った世界に突然天使のように現われる『沙耶』という謎の少女。何もかも内臓をぶちまけたかのように見える狂った世界で、ヒトの形をしている者を久し振りに見て話をしたフミノリは歓喜のあまり涙を流します。

 

「普通のもの」が「グロテスク」に視える眼で、「普通のもの」に見える『沙耶』は「グロテスク」である、という逆説が成り立つことにフミノリ自身気づきながらも、『沙耶』にどんどん惹かれなくてはならない存在になっていき、今まで親友だった者たちが邪魔になり、最終的には世界が滅んだとしても沙耶が生きていてくれればいい、とさえ思うようになります。

 

ネットやゲーマーの間で「究極の純愛」と評される本作に、私はアディクト(依存症者)の心理描写を垣間見ることができるのでは、と思います。

 

私の場合はアルコールですが、脳の報酬系回路が完全に破綻しているアルコール依存症患者が酩酊している最中というのは、まさに世界が歪んで「視えている」のではないか、と思うのです。

 

心配して声をかけてくれる親友や夫や妻や親。客観的にみれば善意で声をかけてくれている大切にすべきヒトが、とてつもなく邪魔で嫌悪感しか抱かせない肉塊に視え、アルコールという身体にとって毒でしかない薬物が天使のように視え、それさえあれば、もう世界が滅んでもかまわない、自分が死んでもかまわない、と、文字通り「心酔」してしまうのです。

 

「俺にはお前(酒)しかいない」

「誰もわかってくれない」

「こんな世界などなくなればいい」

「お前(酒)だけいればいい」

 

すべて、私が連続飲酒時に思っていたことそのままです。

 

アルコール依存症患者のご家族がよく

「私たちより酒が大事なのか?!」「私たちを大切に思っていないから酒を飲むんだ!」と

悲しみに暮れるお姿を拝見するたびに、フミノリの友人たちを思い出します。

 

普通の感覚からいったら、ありえないのです。ありえないことだし、倫理的におかしいし、人でなしに映る行動をするのです。

 

それは、アルコールに心酔して世界が歪んで視えているからです。

 

決してご家族が憎くなった訳でも、大事じゃなくなったわけでもなく、アルコールという毒により損傷を受けた脳とアルコールの作用で、頭がおかしくなっているからです。

 

そう理解すると、

酔っておかしなことを口走ったり、酩酊状態でした約束を翌日すっかりブラックアウトして忘れていたりするのが、「ああ、狂っているからしかたないんだ」と切り離して考えられるのではないかと思います。

 

つまり、酒が入って頭が狂っているときは、その人のそのままの言葉ではない、歪んだ視野の歪んだ言葉であり、本心ではないのです。

酔っているときに話を聞いたり、真剣に話をしても、仕方ないというのは、こういう状況だからです。

完全にアルコールを脳内から抜いたとき、たとえば専門病院に入院して2ヶ月以上が経って「素面」と呼べる状況になって話す言葉だけが、やっと本当のその人の言葉だといえます。

 

 

アルコールに毒されているときにこの事実に気づくのは、本当に難しいことです。

通常、もう飲めないくらい肝臓が痛み、消化器が傷み、酒を口に含むと全て嘔吐するような状況に陥り栄養失調で緊急入院するくらいになって初めて強制的にアルコールとの連続した関わりが絶てて、アルコールという化け物との純愛の終わり、決別を考えます。

 

そして、それは本人にしか決められません。

 

周りが何を言おうと、どんなにその人にとって大切な人が何をしようと、自発的に「酒との縁を切る」と心から思い本人が実行に移さない限り、世界がまた正常に視えるためのスタートには立てないのです。

 

 

バッドエンド扱いですが、『沙耶の唄』のエンディングのひとつに、フミノリの脳を治し、世界がまた正常に視えるようになる、という終わりがあります。

 

沙耶とは永遠の別れになり、フミノリは精神病院の真っ白い閉鎖病棟でいつまでも沙耶を待ち続ける、という哀しいエンディングなんですが、これは、断酒し始めのアルコール依存症患者の心情にそっくりです。

 

真っ白で何も無い、楽しみも喜びも、得体の知れない失った悲しみだけがある、ようやく戻ってきた正常な世界。

 

だから、また『沙耶』(酒)のいる世界を求めて再飲酒してしまうのでしょう。

 

その先には絶望しかないとわかっているのに、また戻ってしまうのは、そうした心理だと言えます。

ひとの常識や世界観など、薬物により感覚を狂わされれば意図も簡単に崩れ去ります。

狂い人になるのはいつでもできます。

沙耶(酒)はコンビニでもスーパーでも居酒屋でも、いつでもその姿を見にいくことができ、感動の再会をすることがいとも簡単にできてしまうからです。

 

それでも、私はこのバッドエンドが一番のエンディングだと思います。

なぜなら、フミノリとは違い、アルコール依存症患者には、この後の物語があるからです。

 

真っ白い何も無い部屋でしばらく自分を見つめなおし、時を過ごしていくうちに、閉鎖病棟から一歩ずつ外界に関われるようになり、季節があることを思い出し、花の香りを思い出し、日差しの暖かさと人の温もりに触れた喜びで涙する日が、いつか必ず来るからです。

 

もし取り寄せられれば、アダルトゲームではありますが、プレイしてみることをお勧めします。

あなたの価値観が変わるかもしれません。

注意いただきたいのは、結構なホラーなので、ホラー映画など怖いのが苦手な方は、ご遠慮ください。ネットのネタバレあらすじを読めばだいたいわかりますので、そちらをお勧めします。

 

もうひとつ、関連性が見出せる作品があるのですが、それはまた今度。

 

では、また!