シアナマイドを飲もうとして注ぐとき、
何日かに一回のペースで、
同じことを考えるときがある。
その考えること、というのは、
「これ2瓶飲んで、メチルアルコールをガボガボ胃か腸に入れれば、苦しみまくるけど確実に死ねるかもな。今日そうしたらどうなるだろう?」
ということだ。
たいがい生きているというのは、苦痛だ。
たいがい、嫌なことばっかりだ。
怒りや恨みや人間の汚いイヤーな面を
見せ付けられる時間が80%を占めている。
感動や安らぎや喜びに触れられる
残りの20%があるから、
今日も生きてみようかな、と思って、
そんな暴挙には出ないで、
「いってきます」と妻に言う。
それが「1日断酒」なのかなぁと思う。
妻がいるから、まだ希望を持っている。
妻みたいに、人をフラットにみられる人が、まだまだ世界中には沢山いるはず、と
信じられるうちは、苦痛でもまだ人生やってみる価値を感じる。
それが無くなったら、もう本当に何も無い。
やりたいこと、したいこと、
ほしいもの、なりないもの、
そんなもんはひとつも、無い。
仕事で世の中の役に立つ以外、
今の所無い。
私はそんな風に、
今日も“たまたま”生きている。
生きているということは
有り難いことだとは理解していても、
まれなものだからといって
「有難がれ」
「粗末にするなど失礼だ」
と言われても困る。
それはそう発言した人にはそうでも、
私にとって同じである道理はない。
なぜなら、
生きていることが
良いことか悪いことかは、
本人にしか価値を決められないからだ。
価値があるかどうかは
人それぞれの感じ方次第で、
価値が無いと思うことは悪では無いし、
価値があると思うことが必ずしも全方位的に正しくて素晴らしいとは、
誰にも決めつけられない。
ていうか、決めつけるな勝手に。
価値があると思う人には有るし、
価値がないと思う人には無い。
これが各々の『真実』だからだ。
そしてその『真実』は
移ろう四季のように、
あったりなかったり揺れ動き、
1つ所に留まるような
単純なモノではない。
今、この時、
私は人生に価値がある、と
まだ思っているし、思いたい。
それは、
“酒を断ち、愛する妻と暮らしている”
という今の生活の前提条件があるからだ。
妻が死んでしまったら。
まだみぬ子供らが自立して、もう思い残すことがなくなったら。
余命が幾ばくもないってわかったら。
私は、そのとき、どうするかな。
今想像するには、
人生の価値を「無い」と判断するだろう。
施設に入れたり、介護したり、
そんな風に俺如きに
無駄にお金を使わないでほしい。
ひっそりとした山のなかに
ひとり捨て置いてもらいたい。
捨てるときに一緒に、
酒とタバコを腐るほど
置いといてもらってたら、
すぐ連続飲酒になって、
栄養不良になって足腰立たなくなり、
誰にも迷惑かけずにそこから動けずに
苦しみながら土に還ることができる。
ようやく、義務を終えて死ねる。
妻が生きているうちは、
飲まない方が楽しいから飲まないけど、
妻がいなくなった世の中なんて、
正直クソどうでもいい。
これが私の今の考えあり、
1日断酒の答えです。



