今日は、気張らなくては、なりません。
朝大事な用事があり、すでに仕事しております。
私の中では、
薩摩といえば、島津。
島津といえば、豊久。
超、憧れです。
豊久といえば、狂奔。
狂ってこその、美しい、
中る(あたる)武士道。
まさに、私の
理想の断酒道の手本。
私は、
薩摩の、島津の、お豊のような、
『命捨てがまる』程、ある意味『イカレた』、
ただの士道ではない、
日本武士(ひのもとさぶらい)の
『生き様』が、大好きです。
■示現流の精神
示現流とは如何なるものか、と
人に尋ねられた時、
流派の創始者、重位は
次のように答えたそうです。
「示現流とは、
「示現流とは、
自分が大切にしている刀をよく研ぎ、
よく刃を付けておき、
針金で鞘止めをして、
人に無礼を言わず、
人に無礼をせず、
礼儀正しくキッとして、
一生、刀を抜かぬものである。 」
この話を裏付けるかのように、
重位自作の「木瓜」の鍔には、
鞘止めの小孔が二つ穿ってあり、
後に門弟のひとりが、
敵が眼前に迫ってきた時
この教えを疑うことなく刀に手をかけず、
まさに敵に頭を割られたと思った瞬間、
気がつくと自分は刀を抜きはなっていて、
敵は二つになって倒れていたということです。
この逸話は、
「刀は抜くべからざるもの」の教えが
無益な殺生を戒めていると同時に、
危急の際迷わず無念無想に打つ、という
剣の極意を表しています。
一刀必殺の剣。
これ以上に、武骨な剣はない。
構えは大上段ふうの「八双」のみ。
防御のことなど、一切考えていない。
相手が防御を試み、
刀で受けられても、
その刀ごと断ち切る。
己の全てを込めて叩き斬る。
たとえ討たれて死んでも、
後から続く薩摩の者達が、
自分の死を糧に、
必ずや、
『事を成す』。
そう信じ切る。
だから、
自分が死のうが何だろうが、
首を獲るために『なんでも』する。
首を獲るためなら『なんでも』できる。
「島津は死んでも死なない」
だから『なんでも』出来る。
それが、島津の日本武士 。
新撰組が唯一恐れた、示現流。
全てを賭ける、一刀に全てを。
その生き様は、さぞ美しく、
純粋で、恐ろしかったろう。
私は、そうありたいと願う。
断酒道において、
「唯々真っ直ぐに、渾身の一生を全うする」
自分なりの『示現流』を貫きたい。