己の生きづらさを、寂しさを、
子育てに全力を注ぐことで埋めようとした。
似た生きづらさをもつ私に依存し、
私もかつては母に依存していたように思う。
所謂、共依存。
『過保護のカホコ』というドラマがあるが、
まさにそのまま。
コメディでなくホラーだと感じるくらい似ていた。
社会に出て思い知る、私たち家族の異質さと歪さ。
「家族」が密で近過ぎるのだ。
家庭は表面上うまくいっていたが、
父は帰りがいつも遅いので、同じ家に住むおじさんくらいに思っていた。
母は育児ノイローゼになりながら、
苦手な近所づきあいに一喜一憂し、情緒不安定だった。
やがて近所から爪弾きにされるようになり、
私と母だけの閉じた世界で、
もはや母は甘えられる存在ではないと、
幼稚園に通いだした頃から気を使いだし、自分よりも母を優先するようになった。
「他人とうまくいかず壊れかけている母に頼って負荷をかけてはいけない。この人はもうこれ以上抱え切れない。」
「この人が望むことに応えて、少しでも笑顔になってほしい。」
「そのためには、私の願望は『我慢』しなければ。」
両親はその家族としての距離の近さ、異質さゆえか、
それが世の常なのか、妻を他人だと距離を取る。
家族の枠から外そうとする無意識下の心の壁。
私にとって、もうすでに家族とは妻なのに。
妻と私は一蓮托生、一心同体。
妻の悲しみは、私の悲しみ。
妻を遠ざけることは、私を遠ざけること。
それに気づかず、妻が悪いと思い込んでいる。
だから、妻は両親が大嫌いだし、
私も嫌いにはなりたくないのに軽蔑してしまう。
もう、別の家庭になったのだ。
繋がりは切っても切れないが。
連絡をくれない、大切にしてくれない、と
ヒステリックに連絡をしてくる母。
「お互いのためにならない」と感じて、
一年前からは意図的に距離を置いている。
連絡を嫌がっていることは暗に伝わり、
徐々に控えめになってきている。
何でも親の言う通り、親の顔色を見て、
親のせいにして、生きてきたために、
私は私の意思がどこにあるのか、わからなくなった。
仕事や人生に責任が持てなかった。
自分の頭で考えられなかった。
思えば、30歳辺りまで
飲酒絡み以外で楽しいと感じたことは、
あまり記憶にはない。
「独り立ちして生きていかなければならない」
その一心で、自死を回避した。
病院にはかからなかったが、おそらく当時は
鬱とアルコール依存に苦しみもがいたようだ。
こんなに苦しいなら死にたいと毎日思った。
自分がなぜ生きたいのか?
どう生きたいのか?
『真ん中』が空っぽの伽藍堂。
毎日朝の通勤電車を待ちながら、
ゆらゆらと線路を眺めていた新人時代が懐かしい。
あの頃は、自分も世の中も全てが大嫌いだった。
自分にも周りにも嘘ばかりついて、酒に逃げた。
だから、アルコール依存症になった。
私は結婚を経て、
自身の生きづらさの心因を理解するにつれ、
一時期は「こんな、自我すら分からないような出来損ないに、よくも育てたな」と両親を強く憎んだ。
しかし、彼らにとっては、
必死に育てた結果が
精一杯育てた結果が、これだったのだ。
誰も悪くない。
どの方法が良かったとか悪かったとか、
そういったことではない。
おそらく、どう育てたとしても、
最終的には、本人が、「どうしたいか?」
これに尽きるのであって、
選ぶ道の良し悪しは本人が決めること。
誰も悪くなく、誰にも分からない。
未だに私に執着する両親には、正直辟易としている。
あなた方は、あなた方自身の幸せと生活の充実を図ることを『真ん中』にすべきだったのに、
私という鏡を使って、自身の幸せの追求から逃げたのだ。逃げたかったのだ。
だから、『真ん中』が空っぽだから、
私に執着する。
あらゆることは、善悪つけがたい。
本当は誰も恨まなくていいし、
本質的に私たちは良くも悪くもない。
ただ、在るようにあるだけ。
天が決める様々なアクシデントに翻弄され、
完全にあっちこっちに振り回されるけれども、
それらは天に預け、手放せば、
その限りにおいて自由。
恨まなくていい。責めなくていい。
自分自身の『真ん中』を追求すれば、
技は極まり、人とは優しく繋がれる。




