ルカ9:10-17
 

9:10 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。
9:11 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。
9:12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」
9:13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」
9:14 というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。
9:15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。
9:16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
9:17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。


今年は,5月になっても忙しいのが落ち着きません。自分の仕事が学校,教会共に増えたからかもしれません。いろいろさせて頂けるのはありがたいことだと思いますが,まだ,慣れなくて,中々,聖書ブログを書く時間がありません。

一昨日,昨日と私の大学で学会がありました。その学会のお手伝いをさせていただいたのですが,会計係でほとんど,学会の内容が分かりませんでした。少しだけ,ポスター発表を見ました。分野が違うと,よくわかりませんが,中々興味深いものがあります。自分の分野だけに閉じこもらず,いろんなものに関心を持ちたいなあと思いました。

一昨日の夜,1日目の学会が終わった後,休憩室に出すお菓子が足りなくなっていることが分かりました。ありがたいことに予想していた人よりも多く参加してくださったので準備していたお菓子が足りなくなったのです。夜遅いですし,次の日は日曜日で大学内の購買が空いている時間が少なく,始まる時間までに,お菓子を購入するのは難しい状況でした。しかも,大学の周辺は,お店などありませんから,すぐに歩いて買いに行ける場所ではありません。だから,お菓子をなんとかして購入しておく必要がありました。担当のスタッフはどうするか不安になっていました。たくさんの人に来ていただいているのに十分な対応ができないのは申し訳ないと思ったようです。なかなか計画どおりには物事は進まないものです。私は,車で来ていたので帰る途中に,スーパーに寄れるのでそこで大量のお菓子を購入してくることにしました。ものすごい量のチョコレート菓子を買いました。

お菓子を買って,家に帰り,寝る前に聖書を読みました。帰りの時間が遅くなり,疲れていたので,ゆっくり黙想することができず,お風呂に入りながら,この箇所を思い巡らせていました。弟子たちの気持ちがよく分かりました。「たくさん来てくださることは嬉しいけれど,自分たちは対応できない」という気持ちが私たちを不安にさせ,疲れさせるのだと思いました。しかし,その心の内にはいつも予測通りにいくことに囚われるわたしたちの姿があると思うのです。予測どおりいかないときに,なんでもっと準備しておかなかったのかという怒りやいらだちに代ってしまうこともしばしばあります。

実に,土曜日は,受付の参加費の支払い時に渡すおつりが足りなくなりました。受付担当がその旨を私のところに言いにきたのですが,幸いに,大学の資金課の方がたくさんの量の両替を快く引き受けてくださいました。私も予測外のことが起き,どうしようと困りましたが,「神さま,どうしましょう。助けてください。」と心の中でつぶやいたら,本当に助けてくださいました。祈りというほどのものではありませんが,ちゃんと,心のつぶやきまで神様は聞いてくださるのだなあと思いました。

ピンチの状態になったときこそ,それを神様の助けによって乗り切れると,感謝に変わります。いろいろ合っても人生が幸せに感じられるようになってくるのだと思います。

もう一つ,この箇所から黙想したことは,解決する手がかりは,外ではなく,内にあると言うことです。私たちは,問題があると,何かが足りないからだと嘆きます。なにか,自分たちが変化しなければできないと思っています。しかし,そうではありません。神さまは,その問題に対処できる賜物をわたしたちにすでにくださっています。それを自分で過小評価してしまっています。勝手に自分たちは駄目だと決めつけているのです。

わたしは,基本的に,神様は私たちに完全な状態として存在できるようにさせてくださっています。完全は完璧ではありません。自分一人で何かすべて完璧にできることではなく,自分がそのままの存在でいて,相手もそのままの存在でいることです。そのままで神様の御心に叶う働きができるのです。何かの才能があるとか,特殊な能力があるとか,そんなことでなく,そのままの存在の中に,神様の御心が成就していく種があるのです。それを見いだすだけでいいのです。その種は,大きくなって全ての人を幸せにしていきます。その種とは神の国なのです。だから,変わらなくてあるがままの私たちをそのまま,神の国に相応しいものにさせてくださるのです。

2匹の魚と5つのパンは,私たちの内に確かに存在しています。
ヨハネ20:25
21:20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。
21:21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。
21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
21:23 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
21:24 これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
21:25 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

新学期になって忙しい毎日が続いています。聖書を読む時間は自分の時間として必ず取るようにしていますが,ブログを更新する時間がありません。心配してくださった方,お気遣いありがとうございました。私自身,面倒くさがりで,ブログがあまり得意ではありません。気が向いたら書くというタイプですし,いいも悪いも,我が道を行くという感じです。このブログがこんなのでも続いているのは奇跡だと思っています。こんな気まぐれなブログでも読んでくださる方々に感謝します。

今日の箇所は,おもしろいと思いました。ペトロが,ヨハネの行く道がどうなるのか,イエスに尋ねて,イエスに
「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」と言われました。彼は勘違いして,ヨハネが死なないと思ったところは,人は,御ことばの真意を早合点し,勘違いして信じ込むことがあるのだと思いました。

その原因は,ペトロが他の弟子たちの人生が気になっていたから,みことばの真意を聞き取ることが出来なかったのでしょう。イエスは,ただ,人の人生は関係ないから自分の道を行きなさいと言われただけでした。実際,人は他の人の人生が気にかかります。そして,それと比較してしまうのです。それで,私は,あの人より恵まれていないとか,あの人より祝福されているとか,というふうに決めてしまうのです。誰一人同じ人生を歩む人はいませんし,誰一人として,同じ役割を神からいただいている訳ではありません。

人生は基本的に神と自分が一緒に歩む道であり,誰もその道を妨げたり,支配したりできないのです。究極のところ,神に一人で近づけるように周りが助けるという役割しかなく,その役割を通して自分も神に近づいていくのです。だから,だれも自分の人生を決めつけることはできないのです。家族や親も,自分でさえも自分の人生を決めつけることはできません。神ですら土足で人生を踏みつけることはなさいません。ただ,神の望みは,わたしたちを幸せにすることだけなのです。

だから,自分の与えられた人生を精一杯生きること,これが神の一番の祝福です。生かされていること自体,喜びだと思います。だから,自分の人生は自分で決めていいのです。自分が幸せになると思う考え方で生きればいいのです。そう生きたい思うとき,神はいつも幸せになれる道を備えて訓練してくださいます。

今,自分の息に耳を傾けています。息をするとき,神の愛の息吹をいっぱい吸い込んで生かされていると思うと,単なる空気を吸うことも幸せに感じます。自分の人生が深い喜びで満たされるとき,他の人にも自然にその喜びが溢れていきます。イエスを証しするとは,そういうことを言うんだと思います。私がたとえ,イエスのイという言葉を口にしなくても,周りの人は,必ず,自分でイエスを見いだすようになるのです。

自分の与えられた人生をそのままの自分で,弱さも強さもすべて捧げて生きるとき,他者の人生と比較する必要が無くなっていきます。そのままで喜びと感謝に満ちた人生が送れるようになるのです。本当に感謝なことです。
ヨハネ12:36
光のあるうちに光を信じなさい。


家の洗面所の電球が蛍光灯に変えられていました。夫は多分蛍光灯に変えたほうが、明るいと気をきかせてくれたのはありがたいのですが、自分の顔のシミとか、汚い部分もはっきり見えるので鏡を見るとショックです。悪いけど、白熱球に変えてもらおうと思いますが、私の気持ちを分かってくれるかしらと思っています。


光は、あらゆるものをあるがままに照らします。自分の弱さ、嫌な部分、認めたくない部分などが、だれでもあります。それが自分を価値のないものと思い込む原因になりえるのです。自分は~だから駄目だと思い込み、みんなから愛されていない、自己卑下に陥ります。そんな自分の醜さを認めると自分がなくなるような気がするからです。それが怖いのです。それゆえに、愛されるために無理をします。いい子になろうとしてなれない。こんな自分がいます。


でも、そんな自分に出会えるのは、自分が光に照らされているからだと思うようになりました。その光は、自分の弱さを照らし、それを祝福に帰る力があります。光に照らされていることは、ありのままの自分を受けれてくれる愛です。今、どんな状態であっても生かされています。何も自分を決め付けない。誰も決め付けない。苦しいなら苦しいと正直に認めると、光に照らされている自分に気付きます。


その光はイエスさまの十字架となって私たちの救いとなりました。光を信じることは、十字架の恵みをそのまま、認めることです。それを認めたときに、限りない恵みを感じるでしょう。喜びの上に喜びを見出だすでしょう。


十字架は、神の愛の源です。感謝。