ヘブライ2:17-18
それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で、兄弟たちと同じようにならなければならなかったのです。
事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けているものたちをお助けになることができるのです。
いろいろ、人は生きていく中で試練に合います。それぞれ人によって、人生にはテーマがあり、乗り越えなければならない課題が与えられています。そのテーマは、一通り人生が終わらないと、分からないのですが、一つ一つの困難な課題は、必ず後の自分の歩みにつながっています。その課題の意味が自分なりに納得できているのと、そうでないのとで、次の人生の歩みが大きく異なってきます。その課題を乗り越えられないと、いつまでもそのことに囚われて、苦しみ、挙句の果てには、自分の存在を否定してしまう悪循環に陥ってしまいがちです。もちろん、すべての課題に対して納得できる答えが得られる訳ではありません。実際はわからないことが多く、神様の御手の中にあるということしか言えないのも答えです。課題の意味がわからなくても、分かる部分がいつか与えられるかもしれないし、たとえ、分からなくても、神様がその答えを来たるべき日に明らかにさせてくださいます。
試練が自分に意味のあるものだと分かっていても、やはり辛いものです。試練も恵みであるというけれど、できれば、そこから自由になりたい、我慢できないいらだちが出てきます。人間は待てないで自分の力でがんばってしまってエネルギーを使い果たしてしまうことも多いものです。なんとか生きていかないといけないわけですから、何かに頼って、すがりついて行かないと、生きていけない弱さがあります。本当は、神様にすがりつきたいけれど、神さまはすごすぎて私たちの苦しみなんてわからないよと思いこんでしまいます。
もちろん、神様は、そんなことはご存じです。人間が自分の力でなんとか生きていけるのには限界があるということはよくわかっておられます。それで、イエスさまは人間と同じようになられたのです。人間と同じような人生を送って、苦しみも悲しみも経験されました。そして私たちの愚かさのために、十字架に掛かられて死なれました。その後復活なさって、天に昇られました。しかし、単に、天に帰られただけでなく、実に、今も、イエスさまはわたしたちと常に一緒に歩んでおられるのです。
Compassionということばがあります。通常「あわれみ」と訳されます。分解すると、Com(共に)+Passion(苦しみを伴う激しさ・イエスの十字架)という意味になります。わかりやすくいうと、一緒に十字架を担うということです。イエス様は人一人で試練を乗り越えられるほど強くないことをご存じです。だから、この世に生きる苦しみや悲しみを身をもって知っておられるイエスさまは私たちのことに心を痛め、苦しみを一緒に引き受けて歩んでくださるのです。人は、苦しみ、悩む人と共にいるとき、その人に寄り添うのには限界があります。完全に愛することなんてできないからです。こんな弱さに直面するのです。しかし、イエスさまは違います。最後まで裏切らずに歩いてくださいます。
以前、私は、とても辛いことがあって一人夜に祈っていました。泣く力もなく、涙も出ませんでした。言葉もみつからず、ただ、沈黙しているだけの祈りです。そう何も言える気力もなかったですから、ひたすらそのままの自分があるだけでした。泣くことができることもエネルギーが要ると思います。訴えるのもエネルギーが要ります。でも、わたしには、そんなものはありませんでした。そのとき、手がぬれました。私の目に浮かんできた映像は、小さくなって座り込んでぼろぼろになった傷ついたイエスさまでした。手がぬれたのは、私の幻覚かもしれません。しかし、イエスさまは、私たちの弱さ、脆さ、どうしようもなさから来る苦しみのために私たちを憐れんで泣いておられるんだと思いました。
人はだれかにその苦しみを少しでも分かってもらえるとき、生きていく力を得ます。だれで自分の気持ちを分かってほしいと思っています。でも、自分の弱さをうまく伝えられず、つい頑張ってしまいます。ただしく生きてないと、自分が認められないと思うからです。でも、どうしようもない気持ちに一緒になって苦しみ悲しむイエスさまがそばにいらっしゃいます。まさに涙を流しておられるのです。
そんなイエスさまのように少しでも人の人生に寄り添う生き方ができればいいと思います。わたしが、完全にできなくても、限界があっても、その限界はイエスさまが、その人に現われるための重要なものです。でなければ、その人はイエスさまに出会えません。私は、その人がイエス様に出会っていくための道具に過ぎないのです。何もできないけれど、イエスさまのように寄り添うとき、イエス様が自分をいかに助けてくださっているか、よく知る恵みにあずかります。
不完全な人間の愛は、神様の完全な愛へ導く重要なきっかけなのです。
それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で、兄弟たちと同じようにならなければならなかったのです。
事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けているものたちをお助けになることができるのです。
いろいろ、人は生きていく中で試練に合います。それぞれ人によって、人生にはテーマがあり、乗り越えなければならない課題が与えられています。そのテーマは、一通り人生が終わらないと、分からないのですが、一つ一つの困難な課題は、必ず後の自分の歩みにつながっています。その課題の意味が自分なりに納得できているのと、そうでないのとで、次の人生の歩みが大きく異なってきます。その課題を乗り越えられないと、いつまでもそのことに囚われて、苦しみ、挙句の果てには、自分の存在を否定してしまう悪循環に陥ってしまいがちです。もちろん、すべての課題に対して納得できる答えが得られる訳ではありません。実際はわからないことが多く、神様の御手の中にあるということしか言えないのも答えです。課題の意味がわからなくても、分かる部分がいつか与えられるかもしれないし、たとえ、分からなくても、神様がその答えを来たるべき日に明らかにさせてくださいます。
試練が自分に意味のあるものだと分かっていても、やはり辛いものです。試練も恵みであるというけれど、できれば、そこから自由になりたい、我慢できないいらだちが出てきます。人間は待てないで自分の力でがんばってしまってエネルギーを使い果たしてしまうことも多いものです。なんとか生きていかないといけないわけですから、何かに頼って、すがりついて行かないと、生きていけない弱さがあります。本当は、神様にすがりつきたいけれど、神さまはすごすぎて私たちの苦しみなんてわからないよと思いこんでしまいます。
もちろん、神様は、そんなことはご存じです。人間が自分の力でなんとか生きていけるのには限界があるということはよくわかっておられます。それで、イエスさまは人間と同じようになられたのです。人間と同じような人生を送って、苦しみも悲しみも経験されました。そして私たちの愚かさのために、十字架に掛かられて死なれました。その後復活なさって、天に昇られました。しかし、単に、天に帰られただけでなく、実に、今も、イエスさまはわたしたちと常に一緒に歩んでおられるのです。
Compassionということばがあります。通常「あわれみ」と訳されます。分解すると、Com(共に)+Passion(苦しみを伴う激しさ・イエスの十字架)という意味になります。わかりやすくいうと、一緒に十字架を担うということです。イエス様は人一人で試練を乗り越えられるほど強くないことをご存じです。だから、この世に生きる苦しみや悲しみを身をもって知っておられるイエスさまは私たちのことに心を痛め、苦しみを一緒に引き受けて歩んでくださるのです。人は、苦しみ、悩む人と共にいるとき、その人に寄り添うのには限界があります。完全に愛することなんてできないからです。こんな弱さに直面するのです。しかし、イエスさまは違います。最後まで裏切らずに歩いてくださいます。
以前、私は、とても辛いことがあって一人夜に祈っていました。泣く力もなく、涙も出ませんでした。言葉もみつからず、ただ、沈黙しているだけの祈りです。そう何も言える気力もなかったですから、ひたすらそのままの自分があるだけでした。泣くことができることもエネルギーが要ると思います。訴えるのもエネルギーが要ります。でも、わたしには、そんなものはありませんでした。そのとき、手がぬれました。私の目に浮かんできた映像は、小さくなって座り込んでぼろぼろになった傷ついたイエスさまでした。手がぬれたのは、私の幻覚かもしれません。しかし、イエスさまは、私たちの弱さ、脆さ、どうしようもなさから来る苦しみのために私たちを憐れんで泣いておられるんだと思いました。
人はだれかにその苦しみを少しでも分かってもらえるとき、生きていく力を得ます。だれで自分の気持ちを分かってほしいと思っています。でも、自分の弱さをうまく伝えられず、つい頑張ってしまいます。ただしく生きてないと、自分が認められないと思うからです。でも、どうしようもない気持ちに一緒になって苦しみ悲しむイエスさまがそばにいらっしゃいます。まさに涙を流しておられるのです。
そんなイエスさまのように少しでも人の人生に寄り添う生き方ができればいいと思います。わたしが、完全にできなくても、限界があっても、その限界はイエスさまが、その人に現われるための重要なものです。でなければ、その人はイエスさまに出会えません。私は、その人がイエス様に出会っていくための道具に過ぎないのです。何もできないけれど、イエスさまのように寄り添うとき、イエス様が自分をいかに助けてくださっているか、よく知る恵みにあずかります。
不完全な人間の愛は、神様の完全な愛へ導く重要なきっかけなのです。