ガラテヤ3:23-29
3:23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。
3:24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
3:25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。
3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
3:27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
3:29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
キリスト教の生みの親であるユダヤ教では、聖書を読むときに10人で読めば10人とも違うものの見方を求めるそうです。聖書を読むときは、正しいか、間違っているかでなくて、一人一人に与えられたみことばが違うので、そのすべてが存在するのを認めることが、神様のみことばにより近づくことだと考えられているからです。一人のものの見方には限界があります。他の人のものの見方を認めることでその限界を限りなく越えることができるのです。いつも私は、聖書を読むときに、他の人と全く同じ考えなら、それは聖書を読めていないと思います。だから、聖書を読むとき、自分の肉となるように、心も頭も体もみんな使って読むように心がけています。神様が「あなたはどこにいるのか」という問いかけに答えるためです。信仰とは、神様への応答だと思うからです。この神様との豊かなコミュニケーションこそが、決まり切ったルールよりも先にあるものだと思っています。ルールは人のためにあって、それが先にあるわけではあえいません。
さて、今日の箇所は、律法(ルール)がありきという考え方に対して律法よりも信仰が必要だと述べているところです。私の恩師はある小学校の校長をしています。今日、小学校の先生になりたいという大学院生と話しと恩師と私とで話しをしていました。わたしの大学は教員養成のための大学ではないのですが、小学校教諭の二種免許が取れるようです。中には教師になる人もいます。大学院在学中に彼女は小学校の教師の免許を取ったみたいで小学校の先生になるにはどうするか相談に来ていました。話しを続けるうちになぜか教育論になりました。最近の教育は決まった型にはめることに熱心で本来、その子供を一人の人格としてあるがままに受け入れ、その子のもつオリジナリティを育てることをしなくなったと話していました。型にはまらない子を抑圧し、切り落としていく風潮が強くなってきて、弱い子羊を大事にしないで、弱い子羊を排除するだけのやり方でいいのか疑問に感じると恩師が言っていました。キリスト教系の大学なのでクリスチャンである恩師は、キリスト教教育に対する信念があるようです。人は管理され、支配されなくても、自分の共同体に受け入れられていると感じるならば、自分たちで神の国とその義を求めていくのだと思います。人は失敗するし、ルールを守れないようなときもある、ルールが先行するのは何かおかしいです。人は、弱いときも強いときも人はそのまま受け入れられていると信じることで自然と一つになれるものです。つまり、人は、神と人に愛されていると信じることで、厳密なルールが無くてもお互いの持ち味を生かしながら一つの共同体を作り上げることが可能なのです。
「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」これが教会なのです。以前、ある教会の大学生が、自分が、神と人々につながっていればみんなを傷つけることなんてできないと言っていました。愛は律法を完成させるのです。ややもすれば、律法中心主義になり、形骸化した信仰になってしまいがちな私たちに、本当の信仰とは何かを問いかけています。教会に熱心に通っているとか、礼拝のきまりごとに忠実であるとか、クリスチャンはこういう生き方をしなければならないとか、ともすれば「・・・しなければならない」「・・・すべきだ」という思いの中に、律法主義になり、愛を失った私たちの姿を見るとき、信仰とは何かを本当に省みる必要があります。
最近の社会は、管理社会です。管理社会はマニュアルやルールで人を管理します。画一化したものを作り出す便利なシステムが好まれます。一人一人を人として育てる教育は手をかけ、目をかけ、時間が掛かるものです。そして、なによりも地味で目立たない働きです。そんな教育は、「・・・法」や「・・・論」などというようなスーパー・マニュアルはないので、派手さがなく、目立つものではないので時代に逆行しているように思えます。しかし、そんな時代だからこそ、そうした教育をしていく必要があるように思います。気が付いた人々はそういう教育ができる可能性のあるところに行って自分から実践していく勇気が求められます。人を人として当たり前に育てること-神さまが私たちを愛して神様の子供として育ててくださるように慈しみをもって人を育てる共同体をはぐくんでいけたらなあと思います。
「自分らしくみんなと仲良く一緒に生きられるんだよ」とイエス様は語っておられます。イエス様も弟子たちと一緒に共同体の中で宣教をされたのですから。これこそ、福音宣教の基本にあるものだと思います。
3:23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。
3:24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
3:25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。
3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
3:27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
3:29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
キリスト教の生みの親であるユダヤ教では、聖書を読むときに10人で読めば10人とも違うものの見方を求めるそうです。聖書を読むときは、正しいか、間違っているかでなくて、一人一人に与えられたみことばが違うので、そのすべてが存在するのを認めることが、神様のみことばにより近づくことだと考えられているからです。一人のものの見方には限界があります。他の人のものの見方を認めることでその限界を限りなく越えることができるのです。いつも私は、聖書を読むときに、他の人と全く同じ考えなら、それは聖書を読めていないと思います。だから、聖書を読むとき、自分の肉となるように、心も頭も体もみんな使って読むように心がけています。神様が「あなたはどこにいるのか」という問いかけに答えるためです。信仰とは、神様への応答だと思うからです。この神様との豊かなコミュニケーションこそが、決まり切ったルールよりも先にあるものだと思っています。ルールは人のためにあって、それが先にあるわけではあえいません。
さて、今日の箇所は、律法(ルール)がありきという考え方に対して律法よりも信仰が必要だと述べているところです。私の恩師はある小学校の校長をしています。今日、小学校の先生になりたいという大学院生と話しと恩師と私とで話しをしていました。わたしの大学は教員養成のための大学ではないのですが、小学校教諭の二種免許が取れるようです。中には教師になる人もいます。大学院在学中に彼女は小学校の教師の免許を取ったみたいで小学校の先生になるにはどうするか相談に来ていました。話しを続けるうちになぜか教育論になりました。最近の教育は決まった型にはめることに熱心で本来、その子供を一人の人格としてあるがままに受け入れ、その子のもつオリジナリティを育てることをしなくなったと話していました。型にはまらない子を抑圧し、切り落としていく風潮が強くなってきて、弱い子羊を大事にしないで、弱い子羊を排除するだけのやり方でいいのか疑問に感じると恩師が言っていました。キリスト教系の大学なのでクリスチャンである恩師は、キリスト教教育に対する信念があるようです。人は管理され、支配されなくても、自分の共同体に受け入れられていると感じるならば、自分たちで神の国とその義を求めていくのだと思います。人は失敗するし、ルールを守れないようなときもある、ルールが先行するのは何かおかしいです。人は、弱いときも強いときも人はそのまま受け入れられていると信じることで自然と一つになれるものです。つまり、人は、神と人に愛されていると信じることで、厳密なルールが無くてもお互いの持ち味を生かしながら一つの共同体を作り上げることが可能なのです。
「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」これが教会なのです。以前、ある教会の大学生が、自分が、神と人々につながっていればみんなを傷つけることなんてできないと言っていました。愛は律法を完成させるのです。ややもすれば、律法中心主義になり、形骸化した信仰になってしまいがちな私たちに、本当の信仰とは何かを問いかけています。教会に熱心に通っているとか、礼拝のきまりごとに忠実であるとか、クリスチャンはこういう生き方をしなければならないとか、ともすれば「・・・しなければならない」「・・・すべきだ」という思いの中に、律法主義になり、愛を失った私たちの姿を見るとき、信仰とは何かを本当に省みる必要があります。
最近の社会は、管理社会です。管理社会はマニュアルやルールで人を管理します。画一化したものを作り出す便利なシステムが好まれます。一人一人を人として育てる教育は手をかけ、目をかけ、時間が掛かるものです。そして、なによりも地味で目立たない働きです。そんな教育は、「・・・法」や「・・・論」などというようなスーパー・マニュアルはないので、派手さがなく、目立つものではないので時代に逆行しているように思えます。しかし、そんな時代だからこそ、そうした教育をしていく必要があるように思います。気が付いた人々はそういう教育ができる可能性のあるところに行って自分から実践していく勇気が求められます。人を人として当たり前に育てること-神さまが私たちを愛して神様の子供として育ててくださるように慈しみをもって人を育てる共同体をはぐくんでいけたらなあと思います。
「自分らしくみんなと仲良く一緒に生きられるんだよ」とイエス様は語っておられます。イエス様も弟子たちと一緒に共同体の中で宣教をされたのですから。これこそ、福音宣教の基本にあるものだと思います。