イザヤ49:14-16

シオンは言う。
主は私を見捨てられた
わたしの主はわたしを忘れられた、と

女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとも
わたしがあなたたちを忘れることは決してない。

見よ、わたしはあなたを
わたしの手のひらに刻みつける。
あなたの城壁は常にわたしの前にある。


なかなか出口の見えない毎日です。ただ幸いなのは、そんな中にあっても、今までと変わらず生活できているということです。将来のことが見えないとき、不安になってしまいます。思わず、わたしは見捨てられたかな、忘れられたかなと思ってしまいます。そして、悪いように悪いように考えてしまいます。すぐに明るくなれるときはいいけれど、そんなときばっかりではないです。悪いようにしか考えられないのも、その後のいいことがあったときの喜びの準備だから、悪くしか考えられないときはそれもそのままでいいと思うんです。無理して明るくしても、気がかりなことは気がかりでしょう。だから自分の気持ちに正直であろうと思います。そして、神様に正直にわたしの気持ちを話すようにしています。究極的には「神様、どっか行かんとって、見捨てんとって。」みたいに自分の言葉で正直に祈ります。だから、祈りはシンプルで飾り気がありません。美しい祈りがどうも苦手です。だから、人と一緒に祈るときは、言葉を選ばないといけないので、いまだに自由祈祷の代祷は緊張してしまいます。

とにかく、素直に自分の気持ちを打ち明けると、最後には、神様はいつも、「なんで忘れるん?見捨てへんがな。」と言ってくださいます。この言葉でわたしは十分なのです。でも、この言葉をいつも聞かないと、すぐに不安になって、神様に見捨てられたように感じてしまいます。神様はご自分の手のひらにわたしたちを刻みつけておられます。それは、いつも、わたしたちを忘れないというしるしなのです。ああ、イエス様の手のひらの傷。ご復活されても、傷はそのまま今もあるんです。イエス様がわたしたちをずっと忘れないようにするための刻み付けられた印です。

イエス様、わたしたちをいつも覚えてくださっているんですね。わたしたちがどんな状態にあっても、どんなときもわたしたちをお見捨てにならないのですね。なのに、わたしはどうしてあなたを疑うんでしょう。悲しくなります。
でも、大丈夫。疑えるから信じられるのです。信じているから疑えるのです。
あなたが一番悲しまれるのは、あなたの存在に無関心なこと。あなたは、関心をもってわたしたちを見つめておられるのに、あなたの存在に何も感じない、無関心でいるときこそ、本当にわたしたちは惨めな存在なのです。でも、
そんな惨めな存在をも限りなく関心をもってみてくださる方は、本当に愛なる方そのもの。イエスさまの愛になりたいです。