イザヤ49:1-12
49:1 島々よ、わたしに聞け/遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び/母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。
49:2 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き/わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
49:3 わたしに言われた/あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
49:4 わたしは思った/わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である。
49:5 主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ/イスラエルを集めるために/母の胎にあったわたしを/御自分の僕として形づくられた主は
49:6 こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。
49:7 イスラエルを贖う聖なる神、主は/人に侮られ、国々に忌むべき者とされ/支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主が/あなたを選ばれたのを見て。
49:8 主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え/救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて/民の契約とし、国を再興して/荒廃した嗣業の地を継がせる。
49:9 捕らわれ人には、出でよと/闇に住む者には身を現せ、と命じる。彼らは家畜を飼いつつ道を行き/荒れ地はすべて牧草地となる。
49:10 彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き/湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。
49:11 わたしはすべての山に道をひらき/広い道を高く通す。
49:12 見よ、遠くから来る/見よ、人々が北から、西から/また、シニムの地から来る。
私なんていなかったほうがいいのかなと思ったことが誰しもあると思います。何のために生きてるのかわからなくなることもあります。特に困難の中にいるとき、生きる意味や生きる目的は、なんだろうと考えます。そんなもの考えなくてとにかく生きればいいと思うけれども、やっぱり人は何のために私が存在して、何のために生きているのだろうと考えます。そのため人はあらゆる知識を求めたり、修行をしてみたりします。しかし、それらは、心の修養にはなっても、本当のところ自分の存在の意味を見いだすことはできません。それは人間としての限界性でもあります。ただ、自分の存在は知識や修行といったものではなく、究極のところ、人はだれかに認められて初めて自分の存在を認めることができると思うのです。人はだれかに認められたいという心を常にもっています。その心さえ満たせれば、難しい知識よりも修行よりも十分に答えになるのです。しかし、人は人を完全に認めることはできません。言い換えれば人を愛することですら人間には限界があります。たとえ自分の親ですら子供に完全な愛を与えることはできません。親に愛されなかったという思いの中に、親に完全な愛を求めてそれが得られない故の怒りを見ることができます。人間は完全に愛されたいのです。認められたいのです。でも、それは人間に求めるのに限界があります。たとえ、十分に愛されずに育ったとしても、完全な愛に出会うチャンスが人生には用意されているのです。不完全な愛を知っているから完全な愛を知ることができるので、不完全な愛に出会うのは、完全な愛を知る大切な準備なのです。
完全な愛、わたしたちを完全に認めてられるのは神様しかありません。神様は完全な愛だからです。「主の御目にわたしは重んじられている。」ということばに神様がいかにわたしたちを愛されているかはっきりとわかります。「重んじられている」ということばですが、ある聖書の訳では「尊い」という訳になっていました。ある英語の聖書では「栄光」ということばになっていました。実は旧約聖書の原語、ヘブライ語では「栄光」という意味は「重んじる」という意味なのです。「主の栄光」という意味はわかりやすくいうと、「神様を重んじる」という意味なのですね。つまり「神さまを尊ぶ」という意味でもあります。神様が私たちを尊く思うとか神様が私たちに栄光をくださるのは変な感じがします。こんなちっぽけな人間を目にかけてかわいがってくださるんですよね。しかも、イエス様の十字架を通してご自分の栄光をお捨てになって、また、ご自分を軽んじて私たちを重んじてくださったのです。こんなすごい愛はありません。この愛に報いるほどの愛は私にはありません。それでも、お返ししたいのです。ただできることは、神様を重んじて生きる生き方をさせてくださいと願うばかりです。神様を愛し抜く生き方ができたらなあと思っています。
49:1 島々よ、わたしに聞け/遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び/母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。
49:2 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き/わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
49:3 わたしに言われた/あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
49:4 わたしは思った/わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である。
49:5 主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ/イスラエルを集めるために/母の胎にあったわたしを/御自分の僕として形づくられた主は
49:6 こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。
49:7 イスラエルを贖う聖なる神、主は/人に侮られ、国々に忌むべき者とされ/支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主が/あなたを選ばれたのを見て。
49:8 主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え/救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて/民の契約とし、国を再興して/荒廃した嗣業の地を継がせる。
49:9 捕らわれ人には、出でよと/闇に住む者には身を現せ、と命じる。彼らは家畜を飼いつつ道を行き/荒れ地はすべて牧草地となる。
49:10 彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き/湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。
49:11 わたしはすべての山に道をひらき/広い道を高く通す。
49:12 見よ、遠くから来る/見よ、人々が北から、西から/また、シニムの地から来る。
私なんていなかったほうがいいのかなと思ったことが誰しもあると思います。何のために生きてるのかわからなくなることもあります。特に困難の中にいるとき、生きる意味や生きる目的は、なんだろうと考えます。そんなもの考えなくてとにかく生きればいいと思うけれども、やっぱり人は何のために私が存在して、何のために生きているのだろうと考えます。そのため人はあらゆる知識を求めたり、修行をしてみたりします。しかし、それらは、心の修養にはなっても、本当のところ自分の存在の意味を見いだすことはできません。それは人間としての限界性でもあります。ただ、自分の存在は知識や修行といったものではなく、究極のところ、人はだれかに認められて初めて自分の存在を認めることができると思うのです。人はだれかに認められたいという心を常にもっています。その心さえ満たせれば、難しい知識よりも修行よりも十分に答えになるのです。しかし、人は人を完全に認めることはできません。言い換えれば人を愛することですら人間には限界があります。たとえ自分の親ですら子供に完全な愛を与えることはできません。親に愛されなかったという思いの中に、親に完全な愛を求めてそれが得られない故の怒りを見ることができます。人間は完全に愛されたいのです。認められたいのです。でも、それは人間に求めるのに限界があります。たとえ、十分に愛されずに育ったとしても、完全な愛に出会うチャンスが人生には用意されているのです。不完全な愛を知っているから完全な愛を知ることができるので、不完全な愛に出会うのは、完全な愛を知る大切な準備なのです。
完全な愛、わたしたちを完全に認めてられるのは神様しかありません。神様は完全な愛だからです。「主の御目にわたしは重んじられている。」ということばに神様がいかにわたしたちを愛されているかはっきりとわかります。「重んじられている」ということばですが、ある聖書の訳では「尊い」という訳になっていました。ある英語の聖書では「栄光」ということばになっていました。実は旧約聖書の原語、ヘブライ語では「栄光」という意味は「重んじる」という意味なのです。「主の栄光」という意味はわかりやすくいうと、「神様を重んじる」という意味なのですね。つまり「神さまを尊ぶ」という意味でもあります。神様が私たちを尊く思うとか神様が私たちに栄光をくださるのは変な感じがします。こんなちっぽけな人間を目にかけてかわいがってくださるんですよね。しかも、イエス様の十字架を通してご自分の栄光をお捨てになって、また、ご自分を軽んじて私たちを重んじてくださったのです。こんなすごい愛はありません。この愛に報いるほどの愛は私にはありません。それでも、お返ししたいのです。ただできることは、神様を重んじて生きる生き方をさせてくださいと願うばかりです。神様を愛し抜く生き方ができたらなあと思っています。