マルコ6:1-13
6:1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
6:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
6:6 そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
6:7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、
6:8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
6:9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
6:10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
6:11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
6:12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

以前、ある主教(わたしたちの教会では各教会の牧師のスパーバイザー的な存在の人が各地域にいて、その人を主教と呼びます)が自分の母教会に赴任することになったとき、教会の人々は自分のことを未だに○○ちゃんと呼ばれるとおっしゃっていました。その教会で小さいころから育ってきたら、何歳になっても、たとえ主教になっても○○ちゃんなのだなあと思いました。故郷はある意味自分を育ててくれた人たちがいるけれども、いいも悪いも小さいときのイメージが優先して中々そこから脱却できない難しさがあるものです。それゆえか、故郷は宣教がやりにくいとよく言われます。だから、多くは、遠いところに宣教に行きたがると聞きます。それは、どんなメッセージであっても○○ちゃんが言うことという偏見が、みことばを聞くのを妨げられるの恐れているからかもしれません。人に対する偏見がわたしたちの御ことばを聞く力を妨げているのを人はよく知っていますのでそれに惑わされたくない気持ちもあると思います。また、もしかしたら、みことばを語る自分を敬ってほしいという思いもどこかにあるのかもしれません。人は弱いのでやっぱり認められたいのです。
 
 しかし、あえて、遠いところに宣教に行こうと思うときほど、美しい献身に酔ってしまわないで、自分の足下をみる必要があります。遠いところに行くことに反対する訳ではありませんが、私はむしろ故郷ほど自分にとってよい宣教の場になるのではないかと思います。故郷は自分にとって生の自分を知っている人がたくさんいます。そんな自分が神様に生かされていく生き方を選び取るとき、故郷の人々は、あの子がこんなことをするとは神様はすごいと思うようになってくれるからです。往々にして、神の善い業をさせていただいている内に人々は、神さまを見ないで、やった人の資質にその原因を見いだします。しかし、それは宣教の失敗と言えるかもしれません。真の宣教とは、その人の偉さを伝えるのではなく、その人の背後で働いた神を伝えることだからです。ですから、私は、御ことばを伝えるためだけに自分という存在があればいいと思っています。わたしは、普段は空気のような存在で、目立たず、周りの人々が生き生きと生きられるようにお手伝いするべきところがあればさせていただくという生き方ができればと思います。イエスさまが私たちのために死んでくださって私たちを生かせてくださったように、自分が死ねば周りが生きるのです。福音宣教とは、そういうものではないかと思うのです。人々が私の存在を忘れるほどに神様に向かって生きられるように私を用いてくださればと思います。
 
 イエスさまは、その後、お弟子さんたちを派遣します。イエスさまが前に出ずに、お弟子さんたちを用いられたのです。イエスさまの宣教はいつも共同の宣教だったのです。つまり、他者を生かす宣教だったのです。イエスさまがすべてしようと思えばすべておできになるけれども、あえて、お弟子さんたちと共に宣教されたのです。お弟子さんたちの不完全を承知でなおも、お弟子さんを認め、生かしていったのです。カリスマ的なリーダーが何でもやってしまうよりも、みんなの力を生かせるように一緒に働くリーダーのほうが、結果的に多くの実りがあります。
 わたしは、御ことばがあらゆるところから語られていることを謙虚に受け止める思いを持つことだけで福音宣教の業にだれでも参加できると思っています。ヨブ記にこんな言葉があります。若者エリフがヨブに言ったことばです。

 「わたしは、若く、あなたたちは年を取っておられる。だから私は遠慮し、私の意見をあえて言わなかった。日数がものをいい、年数が知恵を授けると思っていた。しかし、人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。日を重ねれば賢くなるというのではなく、老人になれば相応しい分別ができるというものでもない。」

 どのような人からも福音を聞くことができます。たとえその人が自分に対して暴言を吐いてもその中に福音が見いだされます。極悪と言われる行動をみてもその中に福音を見いだせるのです。その福音を見いだすとき、福音で豊かにされるのです。それは、私の努力や能力でできることではありません。その力は、聖霊の働きです。どんな人にも福音が宿ります。それを発見し、共に分かち合うことこそ宣教で大事な要素だと思います。
日々、福音を見いだし、御ことばを感じられるように祈り求めていきたいです。