フィリピ3:3-11
3:3 わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。
3:4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。
3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、
3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、
3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
3:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、
3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
以前、母に「あんたたちは、そんなにため込んでいたらあかんのよ。子供もいないのだから、自分たちのもっているものをどこかに寄付するとか、とにかくいっぱいもってたらあかんで。死ぬときは何ももっていけへんのよ」と言われました。この言葉を聞いて、どっちがクリスチャンやねんと思って恥ずかしくなった覚えがあります。母はクリスチャンではないけれど、よく母の言葉を通して御言葉が伝えられることがよくあります。自慢する訳ではないけれども、私がこの世の中で一番自慢できるものは母ではないかと思います。結婚するまでこのスーパーマザーに育てられた私は、母にあこがれる反面、母みたいにはできないという思いがありました。でも、最近、自分でも母に似てきて言うことなす事知らない間に母になってしまっていますから、おもしろいものです。私たちもイエスさまのようになりたいけれどなれないという思いを持ちつつ、そのうちイエス様のようになっていくというのが信仰というものでしょう。
それはさておき、私たちはだれも自分が幸せになりたいと思うゆえに知らず知らず、いろんなものを身につけていきます。私たちの世代は特に、自分の幸せのためにいろいろため込み、飽きることなくすべてを手に入れたいという野心を持っていると言われます。豊かな世代のわがままな生き方かもしれません。人は、時に、仮に仕事が無くなっても別の仕事でも食べていけるくらいの能力はあると言い切ります。たしかにその人が有能であったとしても、有能さだけでは人生しあわせになれないと思います。自分にどんな才能があろうと、自分がどんな立場であろうと、自分がどんなに正しいことをしていようと、これらは自分を守るために存在しているなら幸せにはなれません。これらのものは神の国と神の義を求める中で生かされるのであり、まず、イエス様のために存在するものでなければむなしいものに過ぎないのです。自分を有利にするものに囚われて生きている間は、その苦しみから逃れることはできません。そういうものにこそ神様からみんな与えられたという謙虚な思いを持ちたいと思っています。
今日はパウロの改心日です。実は昨日なのですが、昨日は日曜日だったので今日になっています。パウロもユダヤ教の中ではエリート中のエリートでした。それにも拘わらず、それらのすべてをイエスさまのために捨て去りました。自分に有利なものを捨て去ってイエスさまを述べ伝えるものになりました。捨てたものは、まったく無用になったのかというと、それはイエス様を伝える道具に変えられました。教会を迫害する熱心さは、キリストを伝える熱心さになり、彼の豊かな律法の知識は、イエス様によって深い愛情に満ちた神の知恵となりました。ユダヤ人という国籍は天国に国籍をもつものになりました。パウロに与えられたすべてのものがパウロだけの恵みにとどまらず、多くの人の恵みになっていったのです。これこそ本当に幸せな人生なのだと最近思います。
どんな計画を立てようと、何かするときはそれがイエスさまにお仕えするためのものかよく検討する必要があります。この世的に自分を守るための目的であるなら、イエスさまを第一にして自分の行動を考える必要があります。
自分でそんなこと考えてわからないときは、どうすればいいか神様に聞くことです。そうしたら、どんな小さなことでも神様は丁寧に答えて、それをなす力をくださいます。神様は私たちが自分では御心を行うことができないほど弱い存在だと知っておられるからです。だから、イエス様をまず第一にさせてくださいと祈る力をいただきたいと思っています。
なかなか持久力のない私です。すぐに疲れるし、なげやりになるし、何をするのも面倒くさくなりがちです。たくさんのすることを求めたらそれだけで嫌になってしまうので、最近は、御心だけを行える力をくださいと祈っています。
パウロのように外に出ていくようなエネルギッシュな人間ではないのですが、御心ならば、必要なものすべて与えてくださいます。今は、行く先がぼんやりとして不安な毎日ですが、毎日何とか生きられているのは、神様が今、さまざまなことを準備してくださっているからと思います。部屋を整理して、捨てるものを捨てて、イエス様と旅に出る準備のときです。きっと神さまはお母さんが心を込めて作ってくれたお弁当を作って私にくださろうと準備なさっています。その姿をちょっと早く目がさめて見る子どものようにわくわくして待っていられたらいいのですが。でも、お腹がすいて待ちきれない私もいます。、早く朝食を食べて、お弁当をもっていければなあと思っている今日この頃です。
どの人の人生もイエス様が共に歩いてくださいます。それを日々感じられるように生きていきたいと思います。
3:3 わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。
3:4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。
3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、
3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、
3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
3:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、
3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
以前、母に「あんたたちは、そんなにため込んでいたらあかんのよ。子供もいないのだから、自分たちのもっているものをどこかに寄付するとか、とにかくいっぱいもってたらあかんで。死ぬときは何ももっていけへんのよ」と言われました。この言葉を聞いて、どっちがクリスチャンやねんと思って恥ずかしくなった覚えがあります。母はクリスチャンではないけれど、よく母の言葉を通して御言葉が伝えられることがよくあります。自慢する訳ではないけれども、私がこの世の中で一番自慢できるものは母ではないかと思います。結婚するまでこのスーパーマザーに育てられた私は、母にあこがれる反面、母みたいにはできないという思いがありました。でも、最近、自分でも母に似てきて言うことなす事知らない間に母になってしまっていますから、おもしろいものです。私たちもイエスさまのようになりたいけれどなれないという思いを持ちつつ、そのうちイエス様のようになっていくというのが信仰というものでしょう。
それはさておき、私たちはだれも自分が幸せになりたいと思うゆえに知らず知らず、いろんなものを身につけていきます。私たちの世代は特に、自分の幸せのためにいろいろため込み、飽きることなくすべてを手に入れたいという野心を持っていると言われます。豊かな世代のわがままな生き方かもしれません。人は、時に、仮に仕事が無くなっても別の仕事でも食べていけるくらいの能力はあると言い切ります。たしかにその人が有能であったとしても、有能さだけでは人生しあわせになれないと思います。自分にどんな才能があろうと、自分がどんな立場であろうと、自分がどんなに正しいことをしていようと、これらは自分を守るために存在しているなら幸せにはなれません。これらのものは神の国と神の義を求める中で生かされるのであり、まず、イエス様のために存在するものでなければむなしいものに過ぎないのです。自分を有利にするものに囚われて生きている間は、その苦しみから逃れることはできません。そういうものにこそ神様からみんな与えられたという謙虚な思いを持ちたいと思っています。
今日はパウロの改心日です。実は昨日なのですが、昨日は日曜日だったので今日になっています。パウロもユダヤ教の中ではエリート中のエリートでした。それにも拘わらず、それらのすべてをイエスさまのために捨て去りました。自分に有利なものを捨て去ってイエスさまを述べ伝えるものになりました。捨てたものは、まったく無用になったのかというと、それはイエス様を伝える道具に変えられました。教会を迫害する熱心さは、キリストを伝える熱心さになり、彼の豊かな律法の知識は、イエス様によって深い愛情に満ちた神の知恵となりました。ユダヤ人という国籍は天国に国籍をもつものになりました。パウロに与えられたすべてのものがパウロだけの恵みにとどまらず、多くの人の恵みになっていったのです。これこそ本当に幸せな人生なのだと最近思います。
どんな計画を立てようと、何かするときはそれがイエスさまにお仕えするためのものかよく検討する必要があります。この世的に自分を守るための目的であるなら、イエスさまを第一にして自分の行動を考える必要があります。
自分でそんなこと考えてわからないときは、どうすればいいか神様に聞くことです。そうしたら、どんな小さなことでも神様は丁寧に答えて、それをなす力をくださいます。神様は私たちが自分では御心を行うことができないほど弱い存在だと知っておられるからです。だから、イエス様をまず第一にさせてくださいと祈る力をいただきたいと思っています。
なかなか持久力のない私です。すぐに疲れるし、なげやりになるし、何をするのも面倒くさくなりがちです。たくさんのすることを求めたらそれだけで嫌になってしまうので、最近は、御心だけを行える力をくださいと祈っています。
パウロのように外に出ていくようなエネルギッシュな人間ではないのですが、御心ならば、必要なものすべて与えてくださいます。今は、行く先がぼんやりとして不安な毎日ですが、毎日何とか生きられているのは、神様が今、さまざまなことを準備してくださっているからと思います。部屋を整理して、捨てるものを捨てて、イエス様と旅に出る準備のときです。きっと神さまはお母さんが心を込めて作ってくれたお弁当を作って私にくださろうと準備なさっています。その姿をちょっと早く目がさめて見る子どものようにわくわくして待っていられたらいいのですが。でも、お腹がすいて待ちきれない私もいます。、早く朝食を食べて、お弁当をもっていければなあと思っている今日この頃です。
どの人の人生もイエス様が共に歩いてくださいます。それを日々感じられるように生きていきたいと思います。