エフェソ4:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補いあうことによってしっかり組み合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造りあげられてゆくのです。


今は、私は教会に行きますが、イエスさまを信じてから約20年近く、聖書はよく読んでいましたが教会には行きませんでした。別に教会がいやだったからではありません。教会がどんなところなのか今ひとつピンと来なかったからだと思います。教会はいいお話を聞いて心が癒されるとぐらいにしか認識していなかったのかもしれません。なんか、人は自分で気づかないと、大事なものを大事だと認識できないのですね。福音を伝えるときに、相手のペースにあわせて、相手と歩調を共にし、一緒に悩み、苦しんでいく地道な宣教を私は大事にしたいと思っています。

もちろん、御ことばを伝え、教えることも必要ですが、一方的な独断になってはいけないと思うのです。


少し、話しはそれましたが、私が教会に行こうと思ったきかけは、大学生のとき、養護学校での教育実習のときでした。私はまだ、知識も経験もなく、授業をするにはまだまだ未熟なものでした。あるとき、実習で授業をしなければならず、教案を書きました。何度も何度も先生に訂正をされ、なんとか、授業ができたという感じでした。授業当日、私は授業をする中で重度の障碍のため動くことも話すことも十分でない生徒が、初めて”おはよう”と言ってくれました。びっくりしました。一緒にいた先生たちも、びっくりしました。私はとくに自分の知識や経験もなかったのに不思議な経験が起きました。自分でも何がなんだかわからなくて動揺してしまいましたが、そのとき”これぞ教会”という言葉が心に響きました。その後、帰って何があったのか、よく祈ってみました。幻想かと思って何度も神さまに尋ねました。でも、同じ言葉が響くだけでした。あまりにしんどくて仕事以外は何もできないくらい疲れ果てたのを覚えています。ある日曜日とにかく、何かにつれられるように教会に息ました。それが教会に私がしっかりつながった始まりになったのです。


今、もう一度このときの経験を思い返してみています。教会はキリストの体なので、それぞれが神様に与えられた役割を果たしていくときに、この世の中では、弱く小さくされた者たちもその中から神様の栄光を表す器になっていくのだと思うのです。それは人間の思いを超える形で実現されていくのです。教会は神さまの国に限りなく近づくことができる恵みを与えられています。教会をつなげるものはキリストの愛です。それがなければ、教会は教会になれず、むしろ、この世の中で最も悪いものになってしまいます。


どんなに美しい礼拝をしてもなに立派な社会活動をしても、このキリストの愛がなければ、むなしいと思います。しかし、不十分に思える礼拝でも、大きな社会活動ができなくても、隣に居る人と一緒にいて、その人を気に懸け、必要とあれば、話に耳を傾け、悩むことのような本当に些細な親切でもキリストの愛から出たものであれば、それの不十分さは補われ、完全なものとなるのです。いつもキリストの愛に戻ることこれこそ教会をつなげ、私たちを成長させる原動力なのです。そしてこれがわたしたちを日々生かしていくのです。