ヨハネの黙示録1:9
わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証のゆえに、パトモス島にいた。
ヨハネの黙示録は、ヨハネがパトモス島にいたときに啓示を受けて書いたものです。ヨハネが自分自身の覚悟と役割をここから読み取れます。どこにどんな立場におかれても神の言葉とイエスを証しすることに強い信念を感じます。イエスを信じる者は、イエスと共に結ばれて、その苦難、支配、忍耐に預かります。
最近、苦しめるのも恵みだと思うようになってきました。私はどちらかいうと何がなんでも生き抜きたいという強さはありません。それゆえ、もっともやる気のない、生きる気のない人間です。生きる気がなければ、葛藤することもあまりありません。強烈に自分のことで悩むこともありません。要はどうでもいいのです。神様は、まず生きるという恵みをくださったのに生きることに関心のない私は最も罪深いと思います。もし、私がひとりだったら、何も感じずにぼんやりと生きているのか、死んでいるのか分からない状態だったろうなあと思います。でも、この世は一人で生きていくわけにはいきません。それゆえに、いろんなことを悩んだり、苦しんだりできるんだなあと思います。イエスさまもこの世に来られたから私たちと共に苦しんだり、悩んだりできたのかもしれないと思います。
イエスさまを証するとき、ただ言葉だけで証しするのではなく、その生き方そのものに習うということです。イエスさまは私たちと共に苦しんでくださいました。わたしたちのために忍耐してくださいました。そしてそれを通して神の支配を表してくださいました。わたしたちはイエスさまと共に成長していく喜びだけでなく、その苦しみも恵みとして与えられています。
どんなときでもイエスさまが私たちの真ん中に、岩のようにおられます。苦しい気持ち、悲しい気持ちにあっても、揺らぐことはありません。それが真の喜びなのです。そのイエスさまを発見できれば、いや、できなくても、いらっしゃるのです。永遠に変わることのない命がここにあるからです。
私は、放蕩息子のようなドラマティックでエネルギッシュな改心劇も経験したきたわけではありません。また、多くの殉教者が経てきた人生のように、強烈に熱情を持った信仰の生き方は私にはできません。けれども、多くの殉教者がキリストにあって生き抜いたからこそキリストにあって死ねたのです。それは、ひとりひとり与えられたエネルギーによります。大きくても小さくても、自分がイエスさまにあって精一杯生きることが、イエスさまを証することなのだと思います。苦しみの恵みは喜びの辛子種だと思います。