フィリピ2:6-10 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ姿になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死にいたるまで従順でした。このため、神はイエスを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。


神さまが降りてこられるといったら、どんなイメージをもつでしょう?普通は、天から神々しい光と力強い姿で降りてくることをイメージします。私たちはなんか強くて大きいものを神さまとイメージしてしまいます。これと同じように、イエスさまがおうまれになったユダヤは、当日ローマの支配を受けており、それから解放されるために人々は偉大な救い主を期待していました。神々しく降りてくる偉大な救い主が来るはずだと思い込んでいました。しかし、神さまは、逆に、小さく何もできない弱い赤ちゃんとして人となって来られたのです。意外です。赤ちゃんはこの世のことは何も知らず、何もできません。だから、親や周りの人々の助けがなければ生きていけません。赤ちゃんが存在できるのは、周りの人々との深い絆だけなのです。神さまは、そうした弱く小さいものに自らなられました。一般の人と同じように親の元で成長し、大人になられました。大人になって、イエスさまが英雄のようにユダヤを守るという期待とは裏腹に無実の罪を着せられ十字架にかかり、死なれました。ここまでなら神さまは、失望しか人々に与えないと言えるかもしれません。しかし、イエスさまはご復活なさって永遠に生きるものとされました。それは私たちへの永遠の希望であり、永遠の喜びなのです。


神さまの働きはクリスチャンと呼ばれる人々にだけあるものではありません。すべての人の人生にキリストを見ることができると思っています。神さまが限りある人になって私たちに示されたことはすべての人のうちにあります。イエスさまがただあってある存在としてこの世にこられたことが救いなのです。自分の中のもっとも小さく、弱いと思う部分にイエスさまが働きます。この世の中のどうしようもない部分に神さまの不思議な働きがあります。神さまの働きをそういう部分から感じる力を大切にしたいと思います。