ルカ17:1-2

17:1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。
17:2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。


私の最初の教会はとても宣教熱心な教会だった。チラシ配布、路傍伝道、訪問伝道、などでとても忙しかった。本当にあれだけ熱心に宣教する姿にはひたすら感銘を受けたが、私の中で宣教に対しての疑問が出てきた。路傍伝道をしていて、要領の悪い私は通りすがりのおじさんに怒鳴られ、ひたすらおじさんの言い分を聞いて謝るだけでした。後の仲間の人たちは、自分の教理の正しさを信じて、そのおじさんに耳も貸さず無視していた記憶がありました。また、訪問伝道も殆ど100パーセント追い払われる。何のための宣教だろうと、ずっと問いかけてきた。伝道集会では、自分たちが正しいと信じてただ伝えるのはいいのだけれど、私自身とても無理しているなあと感じていました。そのやり方について行けなくて、他の教会に移ってしまいました。正しいことを言っているのは分かるんですが、あまりにもプレッシャーが大きすぎて当時の私にはしんどかったのだと思います。今思うと、どれもいい経験だったと思いますが、クリスチャンになって思うことは、自分が真理を知ったといって、相手に聴かなくなってしまう傾向にあるように思うのです。そんな私の傲慢な信仰のためにどれだけの人をつまずかせているのだろうと考えることがあります。宣教というものはややもすると、傲慢性と隣り合わせになってしまい、人々を更に追いつめる危険性があることを自戒しないといけないなあと思います。クリスチャンはキリストの愛を知ったというだけで救われるかどうかは、本当のところ人間には分からないのです。ただ、愛の中で生きられる方法を示されてそのように生かされるなら救われると信じていいと思っています。私はクリスチャンでもそうでない人の言葉にも神様の言葉が宿ると信じています。どの人にも神様の言葉が示されてその言葉に気づく力が与えられていると思います。自分がイエスさまの愛を知ったなら、人々の話にまず耳を傾け、自分の信仰観で裁かず、人々が神様に自分で近づけるように手伝わせていただくという気持ちが大切なのだと思います。相手の中のイエスさまに出会う喜びが自分に与えられ、相手も自分も喜びに満ちあふれるのが福音宣教だと思います。話を聞いていくのは時には辛いけれど、耳を傾け一緒に苦しんでいくなかにもイエス様のみ姿をみることができる恵みに預かります。力で押さえつけるような宣教ではなく、むしろ自分が、挽き臼に懸けられ粉々になって、海に投げ込まれるくらいの辛さに出会ってもなお、残る宝物を発見する中に本当の宣教があるように思います。