おルカ12:49-53

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。
あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」


日曜日の午後、教会のYさんとお茶をしました。Yさんは教会のおかあさんという感じの人でとても話しやすい。韓国から来られて苦労して子供を育てただけある方でとても温かい。最近、日本は心を病んでいる人が多いという話になりました。Yさんは日本は我慢して他人に合わせようとしてしんどくなるのではないかという意見をもっておられました。確かに、日本は和を重んじるばかりに争いをさけようと自分の言いたいことを控える傾向にあると思います。それで、ストレスを抱えて病気になってしまうのでないかと思います。日本は昔から、我慢すること、和を重んじること、控えめであることがよいとされてきました。それは、どれも必要なことだと思いますが、過剰すぎると問題になります。考えてみると、人間はみんな違うので一緒になることは奇跡のなにものでもなく、お互いがしっかり言うべきことは言って,お互いに聞き合って、一緒に仲良く生きていく方法を探ることのほうがお互いが幸せに生きられると思います。表面だけの平和は人々に本当の幸せをもたらさせません。お隣の韓国は、激しくぶつかることもしばしばあるけれど、本音でつきあえるところがあると思います。私は私らしく生きることを許されています。また、相手も相手らしく生きることも許されています。自分さえ我慢すれば平和になるというのは美徳のようである意味とても高慢な態度ではないかと思いました。それは、自分自身が崇高で完璧な人間にならなければという思いで本当の自分を欺いているのではないかと思うからです。神様は自分という存在を大事にするように、その強さも弱さもひっくるめてそのまま大事にするように願っておられるのに、自分を完璧な人間にしようとする気持ちがあるのではないかと思います。本来、神様は、人がその人らしく、お互いの宝物を認め合い、ない部分を補いあって、至らないところがあっても許し合って、お互いに仲良く生きるためによく耳を傾けあい、助け合って生きていってほしいと願っておられます。


主張して理解されず、喧嘩になってしまうこともあります。でも、お互い根気よくつながり合おうとするなら、きっと一致という賜物をいただけます。受け入れられなくて苦しむこともあります。でも、その苦しみは無駄に終わりません。その苦しみがお互いに生きるエネルギーになっていく可能性があります。人は違いを恐れず、その人らしく生きていいのです。


みんな違って一つというのが神さまの国なのかもしれないと思った一日でした。