マタイ20:29-34


「何をしてほしいのか。」


教会の子供たちのためのプレキャンプに青年たちと行った。その日は雨で思ったようなプログラムにならなかった。青年たちは計画通りにならななくて不安に思ったり、しんどかったこともあったのではないかと思う。うっかりして忘れ物があったり、やりかたがわからなかったり、試行錯誤の連続だったと思う。その中で自分たちで考えて、それでもどうしようもなければ「自分たちがどうしてほしいか」と私たち、ちょっと年上の人に聞いてくる。そういう青年たちをみて、わたしは、人はすごい力を秘めているものだなあと教えられた。


確かにいろいろまとまらなくて不安になって頭が真っ白になってしまったり、思いどおりにいかなくていらいらしたり、先のわからない状況になると自分がどうしたいのかがわからなくなってしまう。自分がどうしたいのかよりも「しなければならない」と脅迫的に自分をしばってしまうこともある。たとえば、ダンスをするのに音楽がいる。CDを持っていかないといけないところ、それを忘れてしまったら、ダンスができないと思い込んでいると、余計に頭がいっぱいになる。でも、仮に忘れても、みんなで鼻歌を歌ってやるのもいい。なければないなりに何とでもなる。完璧にものごとをなすよりも、自分がみんなと楽しく踊りたいという気持ちのほうが大事だと思う。苦しんでも自分の本当に自分の思いに正直な青年たちはわたしには頼もしく素敵に思えた。


この箇所はイエスが二人の盲人をいやす前に二人にかけたことばである。イエスがエリコの町を出て、大勢の群集がイエスに従った中、二人の盲人がイエスに「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫んできた。群集はそんな振る舞いを見て、彼らを黙らせようとした。しかし、二人はあきらめずに叫んだ。そこでイエスは立ち止まって「何をしてほしいのか」といわれた。二人は「主よ、目を開いていただきたいのです」といった。そして二人の目が見えるようになった。


自分の本当の気持ちに正直になって神様に打ち明けること、そして具体的にどうしてほしいのか願うことは神様が私達を一人前の存在と見ておられる愛情に答えることだと思う。よく信仰をもつと、「しなければならない」という律法的な教えに縛られる。わたしは、神様に愛されているから、よい子にならなければならないと思って無理をしてしまうことってないだろうか。この二人の盲人はイエスに従った群集に咎められた。群集ば彼らの無礼な行為に

「どうしてそんな行為は信仰者としてするべきではない」と彼らを責めた。けれども、人間は完璧な信仰を持つことができるだろうか。イエスさまほどの十字架を自分が担えるだろうか。わたしもこの盲人と同じようになりふりかまわないで試行錯誤して生きる人生の中、自分の本当の気持ちを神様に打ち明け、そして、自分が願う思いを神様にゆだねたいと思う。そして何よりも謙虚な信仰、背伸びしすぎない信仰を心がけようと思う。