マタイ18:10-14 これらの小さなものが一人でも滅びるのは父のみ心ではない。
この箇所は迷い出た一匹の羊と九十九匹の羊の話し。だいたい迷った一匹の羊を神さまが捜すという行為に神さまの一匹一匹への愛情を感じる。しかし、私はこの箇所ほど私たちへの厳しい戒めはないと思っている。九十九匹に焦点を当ててみよう。私たちは困っている人たちに献金をし、平和のために祈り、活動し、日曜日礼拝に出て人の悪口を言わないで生きようとする。それ自体は良い行為だと思うが、ある意味、善人に酔ってしまっている側面があるように思う。遠くの人を支援するが、身近かに苦しんでいる人が教会にいても自分の身に降り懸かるだろうしんどさを知れば、関わろうとしないという勝手さがあるかもしれない。ことに最近は、社会全体がそういう傾向にあるように思う。共同体から脱落してしまった人にいろんな障害と名前をつけ、その人自身との人としての付き合いをやめてしまう。追い詰めるだけ追い詰めて後は知らん顔。独立して生きるという名の元に自己責任という勝手な言葉の故に弱くなった人をさらに十字架にかける。一昔まえまでは自分を顧みず助けようとするお節介が存在していた。このお節介は、弱くなった羊を出さずよい共同体を保つ機能を果たしていた。人は一人で生きていけない。お互いに手をかけ、目をかけないと育たない。手をかけ、目をかけることはしんどさを伴う。しかし、しんどくてもそれに勝る喜びがある。一匹を迷い出ささない共同体を作ることは大きな教会を作るよりも神の国に近い。落ちこぼれのない共同体の回復こそが私たちに課せられた仕事だと思う。
この箇所は迷い出た一匹の羊と九十九匹の羊の話し。だいたい迷った一匹の羊を神さまが捜すという行為に神さまの一匹一匹への愛情を感じる。しかし、私はこの箇所ほど私たちへの厳しい戒めはないと思っている。九十九匹に焦点を当ててみよう。私たちは困っている人たちに献金をし、平和のために祈り、活動し、日曜日礼拝に出て人の悪口を言わないで生きようとする。それ自体は良い行為だと思うが、ある意味、善人に酔ってしまっている側面があるように思う。遠くの人を支援するが、身近かに苦しんでいる人が教会にいても自分の身に降り懸かるだろうしんどさを知れば、関わろうとしないという勝手さがあるかもしれない。ことに最近は、社会全体がそういう傾向にあるように思う。共同体から脱落してしまった人にいろんな障害と名前をつけ、その人自身との人としての付き合いをやめてしまう。追い詰めるだけ追い詰めて後は知らん顔。独立して生きるという名の元に自己責任という勝手な言葉の故に弱くなった人をさらに十字架にかける。一昔まえまでは自分を顧みず助けようとするお節介が存在していた。このお節介は、弱くなった羊を出さずよい共同体を保つ機能を果たしていた。人は一人で生きていけない。お互いに手をかけ、目をかけないと育たない。手をかけ、目をかけることはしんどさを伴う。しかし、しんどくてもそれに勝る喜びがある。一匹を迷い出ささない共同体を作ることは大きな教会を作るよりも神の国に近い。落ちこぼれのない共同体の回復こそが私たちに課せられた仕事だと思う。