マタイ12:43-50 「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。だれでも、私の天の父のみこころを行う人が私の兄弟、姉妹、または、母である」
毎日、祈祷書の中にある聖書日課を読むことにしている。いつも、旧約聖書、新約聖書から読む場所が決まっているのでとても便利だと思う。さて、先週まで旧約聖書の箇所がルツ記だった。短い物語でルツが姑に孝行するものとして描かれている。姑のナオミは、外国で外国の嫁以外家族を失い、その嫁と別れて故郷に帰るとき、その嫁の一人、ルツは自分の家に帰らないでナオミと一緒にナオミの故郷に帰ることにした。そしてその故郷でナオミの親戚のボアズに厚意を得て、再婚し、ナオミとともに家族にも恵まれるという話しだ。短い話しだし、道徳的な教訓的な要素に目が行きがちだけれど、実はそれ以上のことを私たちに示している。最近、共同体とか家族が崩壊しているといわれる。人は一人では生きていけない。だから、繋がって生きたいと願っている。けれども、何と繋がるのかが大事なのだ。43節~45節に人が悪い霊を追い出した後、綺麗に掃除しただけなら悪いものたちが戻ってきてそれに前よりも悪い状態になるとある。要するに人は何かに囚われてないと生きていけない。だから繋がっておく必要がある。それは悪いものであっても繋がっていられるなら安心だから。でも、悪いものに囚われると自分も滅ぶ。ならば、よいものに囚われよう。よいものの神さまに囚われて生きることにしよう。ルツは神さまに囚われた人たちとともに生きようとしたのだろう。そのことを物語は伝えていると思う。それは肉の家族以上の繋がりだろう。オーストラリアでこんなことを言われた。「あなたは本当に幸せね。スピリチャルな家族がいっぱいいて!」スピリチャルというのは、一般に日本語で言われるニュアンスとはかなり違う。それは内的な異次元の世界を探るものではなく、もっと全体的なものなのだと思う。「私があなたを私のこどもだと思ったら私のこどもなの!」神さまのこの言葉を信じるだけでいい。そう信じるだけでお互い家族だと認めあえる。
毎日、祈祷書の中にある聖書日課を読むことにしている。いつも、旧約聖書、新約聖書から読む場所が決まっているのでとても便利だと思う。さて、先週まで旧約聖書の箇所がルツ記だった。短い物語でルツが姑に孝行するものとして描かれている。姑のナオミは、外国で外国の嫁以外家族を失い、その嫁と別れて故郷に帰るとき、その嫁の一人、ルツは自分の家に帰らないでナオミと一緒にナオミの故郷に帰ることにした。そしてその故郷でナオミの親戚のボアズに厚意を得て、再婚し、ナオミとともに家族にも恵まれるという話しだ。短い話しだし、道徳的な教訓的な要素に目が行きがちだけれど、実はそれ以上のことを私たちに示している。最近、共同体とか家族が崩壊しているといわれる。人は一人では生きていけない。だから、繋がって生きたいと願っている。けれども、何と繋がるのかが大事なのだ。43節~45節に人が悪い霊を追い出した後、綺麗に掃除しただけなら悪いものたちが戻ってきてそれに前よりも悪い状態になるとある。要するに人は何かに囚われてないと生きていけない。だから繋がっておく必要がある。それは悪いものであっても繋がっていられるなら安心だから。でも、悪いものに囚われると自分も滅ぶ。ならば、よいものに囚われよう。よいものの神さまに囚われて生きることにしよう。ルツは神さまに囚われた人たちとともに生きようとしたのだろう。そのことを物語は伝えていると思う。それは肉の家族以上の繋がりだろう。オーストラリアでこんなことを言われた。「あなたは本当に幸せね。スピリチャルな家族がいっぱいいて!」スピリチャルというのは、一般に日本語で言われるニュアンスとはかなり違う。それは内的な異次元の世界を探るものではなく、もっと全体的なものなのだと思う。「私があなたを私のこどもだと思ったら私のこどもなの!」神さまのこの言葉を信じるだけでいい。そう信じるだけでお互い家族だと認めあえる。