昨日の箇所から弟子たちを町に派遣するまで。


この前、教会で福音を漫談とか、漫才、落語なんかにしたらどうかという話しをしていた。なるほど、福音は良い知らせなのだから深刻に語られるより、笑わせて落ちをつけてくれたほうが私は気楽に聞ける。それなら私はゴスペル河内音頭をしてみたい。歌詞は新聞詠みの漫談なのだから歌いながらみんなで踊るのなんていいなあ~!


実際、福音はなにかマニュアルがあってマニュアルどおり語ればいいわけではない。聞く相手のもつ言葉や文化で語るのが大事だと思う。私は大阪生まれなので漫談とかがいいと思うが、人によって違う。そんなの不謹慎だと思う人もいるだろう。

この前、天理教の人に声をかけられた。メッセージ、パンフレットをうけとってほしいとのこと。そのとき、その人は自分たちのことをどう思うかなど聞かれた。何も自分のことは言っていないのに私のことをクリスチャンだと思ったからだそうだ。ただ、聞いていただけなのに。たぶん、私が天理教の親神さまっていい表現ですね。だって神さまは私たちの親ですよねと言ったからかもしれない。

相手のもつ言葉を知り、相手のもつ言葉で福音を語るときに福音が生きる。相手が病気など問題があって福音を聞けないときはまずその問題を取り除くことを助ける。聞けるようになれば自分から聞きたくなるのだと思う。


イエスもまず弟子たちに悪霊や病気を癒す権限を与えてから、弟子たちを宣教に遣わせた。


福音は聞く相手にとって本当によいものになるときに語る自分にも福音の恵みが与えられる。福音は分かちあうものだから。