今回、再度モーツァルト!を観て、気になったシーンがふたつ。
「なんと残酷な人生か」と「誰のためのレクイエム」だ。
キョツアルトの後に見たら、ウンチャルトは何て洗練されているのだ、という印象。
見せ場はキチッと決めるし場面転換ではメリハリがあって、前の場面を引きずらない。だから、逆にあれ?っというところもあった。
例えば、母の死を受けた壮絶なシーン「なんと残酷な人生か」の後の酒場のシーンでは、屈託無く酒に酔っている。時間の経過を彼なりに表現しているからだ、と思う。
彼の演技を観て、改めてキョチャの芝居の特徴がわかった気がした。
キョチャの演技は、最初から最後までずーっと繋がっているのだ。
場面が変わっても、彼は前の場面の心情を引きずりながらセットに入っていく。
つまりシーン転換から少し遅れながら、場面の空気に溶け込んで行く感じ。
何だろう?例えて言うならウンチャルトは、キッチリとした様式美があり(4回目だからかもしれない)、シーン毎に感嘆の拍手が起こる。
キョツアルトは物語がクロスオーバーする映画的な流れを感じ、彼の心情が観客を支配する。余りに悲劇的なシーンの終わりには拍手が憚られる様な後ろめたさまで感じたのは私だけだろうか?
「なんと残酷な人生か」
ここは、父の不興を買ったばかりでなく、自分を信じてくれていた母を亡くし、彼にとって理解不能な愛の一つが喪われてしまう場面。愛のせいで、偽りと欺瞞に悩まされてきた自分の不幸を振り返り、母の死によって一人になったことで、遂に愛に囚われる事もなくなったと言うのだが、言葉と裏腹に、寂しさに体を震わせ、まるで正反対のことを天に問いかけているように見える。
だから、次のザルツブルクの酒場のシーンでは、酒で理性を殺してまで人の肌に触れようとするのだ。
前のシーンとは真逆の陽気な場面で、キョチャの孤独は際立つ。
ウンチャルトは、ウィーンから父に呼び戻された事への不満をぶつけている様に感じる。それがきっと台本通りの正しい解釈なのだ。
だけどキョチャは、常人とは何か異なる、徐々に追い詰められていく助走を始めているのだ。
なにしろキョチャは母の死に対する取り乱しっぷりが、尋常でない。
アマデは、彼の悲しみや怒りが大きいほど創作が進むかのように筆を走らせる。
アマデはウォルフガングにとって悪魔である。父の愛を独り占めし、創作パワーを得るためには彼の幸せを阻む。ウォルフの分身の様に付きまとい可愛い子供の姿をした蜜のような悪魔。
気づいた時にはアマデ無しには生きることができない世界へ足を踏み込んでいくわけだが、キョチャはその精神と肉体の両面で蝕まれていく過程を、驚くほどゆっくりと演じている様に見える。
ウンチャルトは、アマデに首を絞められて、始めて自分が陥っている奈落に気づくのだ。
あくまで私の主観ですが…
「誰のためのレクイエム」
和解できぬまま、父はひと言も言わずウォルフガングの手の届かない所へ往ってしまう。とことん不幸のドン底に落ちたウォルフの元へ、レクイエムの依頼がくる。
レクイエムと聴いた途端、彼の脳内にレクイエムのフレーズが響き渡る。
その瞬間のキョチャの表情を見たとき、私は戦慄した。音楽の創造主はやはりウォルフであることをハッキリ示す仕草だったからだ。残念ながらウンチャルトのこのシーンは記憶がない。
これが演出家の成せる技なのか、キョチャのオリジナルなのか、私にはわからないが、とても忘れられない瞬間だった。
また、泣き方の違いもある。ウンチャルトは、あたり憚らず泣き叫ぶスタイル。泣く演技と歌はレイヤーが違う感じ。
キョチャは、声を出さずに嗚咽するスタイル。苦しみを身体に溜め込み、吐き出す吐息がそのまま歌になる感じ。だからセリフの感情と歌のトーンがずーっと繋がっている。
大司教との「いつも簡単な道はいつも間違った道」で、キョチャは「自分の選んだ道に悔いはない」と言い放つが、それは彼にとって最後の力を振り絞った戦いであることがわかる。力でねじ伏せるのではなく、切々とした訴えが、遂に大司教に届いて諦めさせる感じ。
つづく「モーツァルト モーツァルト」では、周囲の期待に押し潰されるように演じるウンチャルトに対し、キョチャは体は弱り切っているが、大司教の保護は受けないと誓ったからには、何が何でも自分の力で乗り越えようと、創作を続ける姿に見える。なんと、歌が終わるまで、聞こえないかの様に続けている。(途中雑音の様に聞こえてるのはわかる)
演出的には、ウンチャルトの方が合っているんだと思う。キョチャの反応は想定外かもしれない。
そして「モーツァルトの死」へとつづくのだが、キョチャの死はあくまで内側にある。心臓を押さえ、滴る汗さえ病の産物のように見える。(彼は二幕から目の下のアイラインを強くしているように見える。それが汗で滲んでクマのようになる。狙っているのか?!)
逃れられないことがわかっていながら、最後まで抵抗するかのように譜面を書き散らし「私は私は音楽」を口ずさむのだ。
父を憎みきれなかった様に、アマデも愛しているキョチャは、遂に悪魔に身を委ねる。自由と愛、ふたつの葛藤が一つになる瞬間。
ウンチャルトも、キョチャもどちらが正しいということではない。
ウンチャルトを観終わると、良いものを観た満足感があり、
キョチャルトは、自由と愛を両方求めて、叶えられなかった切なさが伝わり、終演後もその悲しみが余韻として残るのだ。
その違いは観客の好みが分かれる所でもあり、一つの作品で有りながら、別の物語を見るように、楽しみが増えることでもある。私たちは興行主の手管にかかって、あっさり回転ドアの観客になるのだ。
ブラボー!モーツァルト!
ひとまず終わり





