だいたいペットと言えば犬猫だろうか。


やはりペットが死んだら飼い主は悲しいだろう。

場合によっては人が死ぬより悲しい事だろう。


だから生きる大切さをペットから学べると思う。


俺は犬猫とは違うが魚を飼っていた。名前はフナ太郎という。
犬猫と違って注いだ愛情分の見返りがない。
だから難しいのだ。死んでも悲しくならない人が多いと思う。


だが俺は違った。フナ太郎は顔を覚え、餌を選び、他の魚達のとも人間関係に似たような、例えば仲良しグループや嫌われ者が居たりする事も知った。魚も本能だけで生きてるわけでは無い事も知った。

末永く飼って分かった結果がこれだけとは少ないかも知れないが、俺は十分な見返りを得たと思っている。



ある時、飼っていたフナ太郎が夢に出て来た事がある。

空をフナ太郎が泳いでいるのだ。夢なはずなのに目を疑い追いかけた。そして夢の中で夢を見てる事に気付き、自ら目を覚ました。


夢の中で夢と気付いて起きるのはこれが初めてで、たった一度の経験だが鮮明に覚えている。


急いで起きて水槽を見に行った。
案の定、フナ太郎は死にかかっていた。俺は既に泣いていた。フナ太郎のピクピクしていたヒレも動かなくなった。

俺はフナ太郎の死ぬ瞬間に立会ったのだ。

フナ太郎は最後の最後まで教えてくれた。

別れる悲しさ、生きる事の厳しさ、命の大切さ。

親の死に際には夢に親が出ると言われがあるそうだ。事実かは知らないが似たような境遇を味わった。


とても良い経験をしたと思っている。


今にも水槽の中でフナ太郎が泳いでいる気がした。
そう、これはとある金曜日。
友達と飲み会で飲んで居た時だ。

その時は本当に意識がまるでおかしい状態だったのは記憶にある。
そして俺は「なんなの?」
と言ったのだが間違えて「何なのかもしれない?」と何がなんだが良く分からない日本語を言ってしまった模様。

そんときは死ぬほどバカウケされ、俺は酔いが醒めてしまった。

言えば言うほど疑問になる妙な日本語である。
本来「かもしれない」はだいたいの言葉に「~の可能性がある」の意味を込めて語尾につけるものである。おまけにだいたいの動詞述語に当てはめられる。

しかし俺は疑問系に「かもしれない」を付けてしまい、その場をわけわからない空気に変えてしまった。

まるで片言しか日本語の喋れない外人みたいな間違いをしてしまった。

それにしても何故か脳内に残る間違った言葉だった。
別に被らないわけでは無い。
基本的にあまり被らない。

何故かというと…
まず俺は暑がりだ。次に頭に帽子を被ると蒸すのだ…
それが嫌なのだ。

会社では帽子を被らなければいけない…それも嫌だが仕方が無い。

あとはファッションで被ったり寒い時、日光が強い時に被る。


まあ普通だ。被る理由は普通である。


しかし被るとあまり良い気分では無い

どちらかというと我慢して被っているようなもんだ。


そんな俺はニット帽という通気性が良い帽子を買った。

被ると「なんだこれは…神か!?」
確かに頭は蒸すが嫌じゃない…
俺のために存在したかのような帽子だ…


これからはニット帽を集めるとしよう