はい、
ドイツに留学中の20代女子です。
日記代わりになればとブログ始めました。
もうドイツにはあと3カ月しかいないけど、できる限りうpしていけたらなと思ってます。
ブログ第一回目にして、かなり重いタイトルだけど、どうしても、自分の感じたことを書いておかないと、きっと明日になれば忘れてしまうと思い、拙くなるのは承知で
とりあえず文章にしてみよう。。。ってことで。
今日キリスト教の友達と神について語った。
自分自身は神様とか都合のいいときにしか頼まない存在だけど、彼女にとったら、神がいないと生きていない!ってくらいの存在。
「何よりも神が一番上の存在。恋人のことは愛していて、頼る、何でも話す唯一の存在だけど、自分が一番心を預けるのは神様で、彼は二番目の存在。
自分が洗礼を受けた(“救われた”)のは自分がキリストを信じようと思ったからではなく、聖霊が働いて、私をそちらに導いたから。」
こんなことを見知らぬ人から突然言われたら、日本にいた私ならきっと怪訝な目で、一瞬も考えないで聞き流しただろう。
しかしこの友達と話すようになってから、キリスト教徒という“人種”に興味を持ち始めた。
私から言わせると彼女たちは、私達とは考え方が根底から違う、世界の見方が根源から違う異なった人種だ。
洗礼を受けるというのは、私はキリストの存在を信じます、という誓いのこと。日本で老人になってから洗礼を受ける人は多々いるらしい。
しかし私は絶対に今後洗礼を受けることはないと確信があるからこそ、彼女の話す神に対する考え方や、思想を、一つの学問のように受け入れることができるのだと思う。
彼女とこの分野について話すとき、私がこのさきの人生きっとしないような考え方が聞くことができて、毎度おもしろいと感じる。
彼女と出会ってなかったら、神についてなんてこのさき一生考えなかったと思うし、自分の見ている世界とは違う世界に生きている人の考えを聞くことは本当に大切だと感じる。
どんな考え方の人だって、その人の主義があるし、信じるものもあるだろう。
だから何の知識もないのに、印象だけである思想を批判することは間違っていると思うし、私自身何事もまず聞いてみよう!の姿勢を大事にしたいと思う。
一番いけないのは自分の考えを持たない、または発言しないこと。
自分はこう思っている、自分の考えはこうだ、と自信を持つこと。たとえその考え方がマイノリティだったとしても、その思想は“自分”を形成しているものの一部。
自分の一部がわからない、または否定してマジョリティに流されてしまうのは、なんだか悲しいことじゃないだろうか。。。
クリスチャンにとっては自分を救ってくれるものは唯一無二の神様。
でも私みたいな無神論者にとっては、自分を救うことができるのはこの世で自分ただ一人。
決定的な思想的違いがあって、全然違う世界を見てる彼女との論議は毎度本当に面白い。