たのしかったー。
子どもたちを大事にした礼拝っていうのは、
やっぱり暖かいんだなーって気づいた。
私もこんなに暖かい教会で育ったんだなぁ。
いい子になるわけだ←
KGKの卒業生を中心にすかいぷしました。
ルツ記をずっとやっているのですが、
積極的に行動することと、
忍耐して待つことの大切さと難しさについて考えました。
例えば積極的に行動するときって、
なにか自分の賜物に気付いていないとできないなって思います。
そして、賜物って、神様からもらったものなのに、
気づいたら自分のかけがえのない長所なんかにすり替わってたり、
なんか、それを強みにしてしまったり。
あくまで、それは神様からもらったものなのに、自分のために使おうとしちゃう弱さが、
私にはあります。とても。うん。
だけど、賜物を使わずに生きることは、またそれは違うんですよねー。
神様から頂いた、この手も、足も、目も、口も・・・
全部もらったものでしょ。
だから、たとえば言葉も自分が考えているんだけど、
その思考回路とか、
その脳みそ自体神様がくださったもので、
努力ができるのも神様から頂いたもの。
だから、それって、神様のために用いるべきなんですよねー。
苦手だけど。
そうだな。苦手だなー。
けど、それで躊躇したり、臆病になっていると、
その賜物を神様のためさえも用いれなくなってしまう。
うん。難しい。
まずはその弱さを認めるとこからなんだろうなー。
認めたら、自分の弱さに、神様が働いて下さいって、
忍耐をもって待つことができるようになるのかもしれない。
ただ、待つことから入っても、
たぶんそれは怠惰とか、ただの放置とか、そういう類のものになっちゃうのかな。
うん、在り得る。
だから、
賜物を感謝して、
ささげたい、けど弱さももれなくついてきますって祈って、
それから行動に出る。
おー。
むずかしいー。
だけど、
それができる人生は、幸いなんだろなー。
生きるって難しいな。
みんな、どうやって生きてんだろう。
わたし、神様いなかったら、どうしてたんだろう。
ちゃんと生きてたかな。
もう、だめになってんじゃないかな。
「私はキリストともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちにおられるのです。
いま私が肉にあって生きているのは、
私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
パウロさんが書いたガラテヤ人への手紙。
の一部。なんだけど、
今日、これをイースターの祝会で賛美しながら、
私にはまだこんな信仰告白ができないなと思いながらも、
まだ、とかそういう問題なんじゃないんだろうなとか、悶々としていました。
つまり、わたしは、
私のためにご自身をお捨てになった神の御子というイエスキリストを信じていて、
信じているっていうのは、彼が私のために十字架にかかってくださったっていうのを信じていて、
私は神様がそれくらいのことをしないとどうしようもない罪があるっていうのも認めて、
だけど、神様はそんなことをこんな私のためにしてくださったのだから!
うーん?
悶々するー。
けど、とにかく私は、それを受け入れたのだから、
まだまだ、とかいう問題ではなく、
赦されたのだから、感謝をもって、キリストが私のうちにおられるのだから愛をもって、
生きたい。
まだ分かんないなー。
悶々。
もうちょっと考えて、まとまったらまた書きますー。
Happy Easter!


