名波浩がいた時代 | フーリガン通信

名波浩がいた時代

ちょっと前のことだが、素敵な思い出について語りたい。110日に名波浩の引退試合である。



私はこのゲームを観戦していない。だからゲームについて語るつもりもない。ただ、ニュースでゲーム後の名波の清々しい顔を見て、嬉しくなった。



ゲームは2002年ジュビロ磐田完全優勝時のメンバーを中心としたSTELLE JUBILO1998年フランスW杯日本代表選手を中心としたAZZURRI GIAPPONEの対戦で、主役の名波は前半はアズーリ・ジャポーネ、後半はステッレ・ジュビロでプレーをした。


集まった選手の顔ぶれは以下の通り (失礼だが芸能人は除いている)



【ステッレ・ジュビロ】
大岩剛、大神友明、奥大介、川口信男、河村崇大、清水範久、鈴木秀人、高原直泰、田中誠、中山雅史、服部年宏、福西崇史、藤田俊哉、松原良香、三浦文丈、森下仁志、山西尊裕、山本浩正



【アズーリ・ジャポーネ】
秋田豊、井原正巳、岡野雅行、小村徳男、北澤豪、佐藤洋平、澤登正朗、城彰二、相馬直樹、中田英寿、中西永輔、名良橋晃、西澤明訓、柱谷哲二、平野孝、本田泰人、前園真聖、三浦知良、望月重良、森島寛晃、山口素弘



そして、エコパスタジアムに集まった観客は公式発表で43,077。エコパでは2002年日韓W杯以来の記録だと言う。



引退して既に1年経っている37歳の選手のために、これだけ豪華な顔ぶれが集まり、お世辞にも便利な立地とは言えないエコパにこれだけ多くの観客が集まった。どうしてだろうか?



その理由を考えるに当たって、改めて名波浩というプレーヤーを振り返る。



「亀にブレーキ」とも言われた鈍足、軸足としての役にしか立たない右足、その頭がヘディングに使われた記憶は少ない・・・それらはサッカー選手としては大きなハンデですらあるといえるだろう。



しかし、名波には、それらのマイナスを補って余りある“インスピレーション”と、そのアイデアを具現化する“左足”があった。たった二つの要素・・・しかし、それらは半端なものではなかった。それだけで名波はチームと我々に大きな喜びを与えたのである。



もちろん名波が率いたチームは強かった。ジュビロは黄金時代を築き、日本代表は1998年フランス大会で、悲願のW杯に出場した。しかし、ただ「強い」だけでなく、名波がピッチにいたサッカーは「楽しかった」。その左足から放たれるボールは、しばしば観る者の想像力を超える軌跡を描いた。時に繊細で、時に滑らかで、時に力強く。そのパスやシュートの一つ一つに、私は何度胸を躍らせたことだろう。



2000 AFCアジアカップレバノン大会の決勝トーナメント・対イラク戦で、中村俊輔がゴール前の密集を避けて真横に蹴ったFKを名波がダイレクトボレーで叩き込んだゴール。新旧の天才レフティの“左足”が紡いだ夢のようなゴールは、今も私にとっての日本代表のベストゴールである。



さて、前述の疑問にもどろう。どうしてだろう?どうして多くの選手が、多くの観客が集まったのだろうか?



私は確信している。選手は名波とプレーした時代に、観客はピッチ上の名波を追った時代に戻りたかったのだ。なぜなら、名波がいた時代・・・それは日本サッカーが最も強く、最も楽しかった時代だからである。



KAZUは日本人に「夢」を見させてくれた。

中田は日本人に「自信」を与えてくれた。


そして、名波は我々日本人にサッカーの「楽しさ」を教えてくれた。


違うだろうか?



名波は最後の試合でも期待通り、我々に「楽しさ」を与えてくれた。


ありがとうナナ。また「楽しいサッカー」を見せてくれ。今度は指導者として・・・



目一杯の助走をつけて

あのボーダーラインを飛ぶんだ

風向きを味方につけて

猫背を気にしながら   Mr.Children I'll be」より)


魂のフーリガン