サラリーマン社長の悲劇 | フーリガン通信

サラリーマン社長の悲劇

1950年2月19日生まれ(59歳)。東京大学法学部卒。1972年4月に日産自動車㈱に入社し、同社では国内営業部門を経て、商品企画部門で中長期の商品戦略立案を手がけ、その後人事部でキャリアコーチとして将来のリーダー候補の育成に従事。2007年4月に横浜マリノス㈱顧問、2008年6月に代表取締役社長に就任・・・


この経歴の持ち主は、今回グラスゴー・セルチックのMF中村俊輔の獲得を逃した齋藤正治(さいとうまさはる)Fマリノス社長。因みに横浜マリノス㈱とは、Jリーグ1部に加盟する横浜F・マリノスの運営会社である。


ご存知の通り、横浜F・マリノスの前身は日産自動車サッカー部。現在の株主構成でも日産自動車が約93%を保有する筆頭株主である。親会社から子会社の社長が派遣されるのはビジネスの世界では当然であり、むしろ日産からすれば上記のような人事の経歴を持つ齋藤氏は適任だったのであろう。しかし、そこに今回の悲劇が存在した。


そもそも事業としてみた場合、横浜F・マリノスは赤字経営。しかし、カルロス・ゴーンを迎えた日産が数多くの不採算事業から撤退してきた中、Football好きのゴーン氏はクラブを「別格」と位置付け、NISSANがオフィシャルパートナーとしての広告費で増え続ける赤字を補填してきた。


しかし、親会社である日産自動車も、昨年来の金融危機に伴う世界的な自動車不況を受け業績が急激に悪化。まさに無い袖は振れない状況になり、昨年末には持株売却と第三者割当増資でこの赤字クラブのスポンサー費用を削減、持株比率を33%以下まで下げて経営権を手放すことも視野に入れていることを発表した。


そんな中、今回の俊輔の復帰は俊輔側の希望によりスムーズに進展していたという。イタリア、スコットランドと7年間を欧州で過ごし、セルチックではクラブとしても個人としても一定の成功を収めた。30歳になる俊輔は、残り少なくなった選手としての将来、ドイツで悔しい思いをしたW杯への想い、家族の生活、それら様々な要素を考え抜いた上で、「帰国」というオプションを選んでいた。そして、帰国するなら2002年に中心選手であった自分を暖かく送り出してくれた「マリノス」と。それは俊輔自身も語り、周囲の誰もが既定路線と考えていた。


金ではない。セルチックは帰国が濃厚と言われた俊輔に対し、年俸3億円、しかも契約期間は本人の希望次第という、破格の条件での残留要請を提示していた。その他、今回移籍することになったエスパニョールを含め、何と14ものクラブからオファーを受けていたという。にもかかわらず、俊輔はそれらのクラブに断りをいれ、交渉先をセルチックの約半分の年俸しか出すことができないマリノス一本に絞っていた。


移籍発表は間近・・・しかし、亀裂はそんな段階から始まった。詳細な理由は報道されていないが、契約前のイベント参加、俊輔の体調を無視したデビュースケジュール等、年俸以外の部分で俊輔側に負担を強いたとも伝えられる。恐らく、その内容はピッチの外でのマーケティング面での効果を狙ってのものだったのだろう。


カリスマ経営者として知られる京セラ創業者の稲盛和夫氏によれば、経営の要諦は「売上を最大限に伸ばし、経費を最小限に抑える」ことだという。業績悪化に喘ぐ「親会社」から派遣された「元親会社社員」である齋藤社長にしてみれば、俊輔という資産を出来るだけ安く手に入れ、その資産を上手く運用して少しでも多くの利益を上げたいと思うのは当然である。トントン拍子に進んだ相思相愛の交渉の中で、少しでも良いディールを引き出そうとした齋藤社長のスケベ心も、サラリーマンとしてならば理解できる。その実績が親会社からの評価に繋がるからである。


しかし、残念なことに俊輔は「会社」にとっては「商材」であっても、「自動車」と違って「魂を持った人間」だったということだ。齋藤氏は人事のバックグラウンドがあったかも知れないが、日産一筋、移籍(転職)の経験もなく会社が敷いたレールをひたすら走り続けてきたサラリーマンである。自らの意志で、自らのスキルで人生を切り開いてきた俊輔の気持ちは実のところよく分からなかったのであろう。だから一旦は横浜に落ち着きかけた俊輔の魂は、スペインへと離れていったのである。


エスパニョールへの移籍を自らのHPで報告した俊輔は、その中でエスパニョールについて「自分のことを本当に必要としてくれて・・・」、「サッカー選手として成長できる環境は得た。死に物狂いでプレーすれば、また大きな財産を得ることができる」と語っている。言い換えれば、横浜F・マリノスは「自分のことを本当に必要としてくれていなかった」、そして「サッカー選手として成長できる環境ではない」ということである。


この俊輔のコメントでのキーポイントは「サッカー選手として」という部分であろう。あくまでも俊輔個人は1人のフットボーラーであり、それ以上でもそれ以下でもない。俊輔の付加価値を利用して利益を得ようとするのは、俊輔を欲しがった全てのクラブ同様の狙いである。エスパニョールも日本人観光客の集客や俊輔のユニフォーム販売を期待しているはずであるが、エスパニョールはあくまでも「フットボーラーとしての俊輔」を評価し、その思いを交渉の場でぶつけたに違いない。メディカルチェック免除という特別待遇もその現れである。そしてその熱意ある交渉姿勢が、最後は俊輔の魂を揺さぶったのである。


かくして俊輔の「魂」は、遠くカタルーニャに彼が望む環境を求めて、彼の野望と興奮と共に飛び去った。横浜に残されたのは、東大法学部を卒業し、日産自動車という大企業にその人生を重ねたエリートサラリーマンの悲劇。貴重な戦力を失った木村監督のみならず、社員からも辞任の要求がある中で、齋藤社長自身は「責任といっても、どこに問題があるのか真実はよく分からない。(責任の)所在の問題がある。できる限りの説明はしている」として、退任の意志は見せない。仕方がない。彼は親会社の命を受け子会社の社長に就任しただけである。彼の処遇を決めるのは、彼自身ではなく、彼の親会社なのだから。


親会社から子会社に出向したサッカーを知らないサラリーマン社長、親会社の業績の影響をモロに受ける経営、親会社からの広告宣伝費で補填される赤字・・・今回の騒動では、未だに企業スポーツから脱却できないJリーグクラブの問題点が改めて浮き彫りにされた。


因みに、齋藤氏が2008年6月9日に社長就任会見で発表した経営方針は以下のとおりである。

【経営の3本柱】

① 挑戦者としてのリスタート

② 更なる地域密着

③ 風通しの良いクラブ

【経営の目標】

・ 2010年にはホームゲームで年間入場者数100万人突破


何と夢のない方針であろうか。やっぱりサラリーマン社長には、はじめからプロサッカークラブの経営は向かなかったのである。齋藤社長は語らなかったが、彼は今回の責任の所在は「俺を社長にした親会社」にあると思っているのではないだろうか。しかし、思ってはいてもその通りには語れない・・・それもまたサラリーマンの悲劇である。


魂のフーリガン