戦争を知らない子供達 | フーリガン通信

戦争を知らない子供達

ウズベキスタン戦で、もう1つ言わせてもらいたいことがある。それは引き分けという名の“敗北”の後のことである。


テレビカメラは、目の前の結果を消化しきれず、呆然と立ち尽くす日本サポーターの姿を捉えていた・・・彼らの気持ちはよく判る。戦争に敗れたのだ。勝てる相手に勝てる試合をしながら・・・共に闘った者なら当然の感情であろう。


しかし、カメラは彼らとは対極の“奴ら”も映し出した。彼ら彼女たちは、“敗れた”直後であるにもかかわらず、テレビカメラに喜色満面で手を振り、仲間同士で肩を組み笑顔ポーズで記念撮影をしていた。皆、代表と同じ青いユニフォームを着て・・・デジカメを構える男の背中にはNAKAMURAの文字・・・


最終予選前の通信で、私は「最終予選は戦争である」と述べた。それは選手たちにとってだけでなく、我々サポーターにとっても同じはずである。汗びっしょりの闘莉王は今にも泣き出しそうな顔でピッチを後にした。俊輔は接触プレーで切った唇をかみ締めていた。彼らの苦渋に満ちた表情は、彼らが闘った証拠である。


なのに、同じ空間に居て、同じく気を吸っているはずなのに、へらへら笑っている人たちがいる。一緒に闘っていなかった人がいる。毎回見かけることなのだが、私は彼ら彼女たちを見るたびに違和感を感じるのだ。そして考える。スタジアムに集まったサポーターたちの何%の人たちが本当に闘っているのかと。


仕事を持つ私も埼スタに行くことはできず、今回もTV観戦組である。高い入場券を払ってスタジアムに行き、少なくともゲーム中は日本を応援しているサポーターにしてみれば、余計なお世話かも知れない。しかし、こんな事実が日本サッカーの発展を妨げるような気がしてならない。


もちろん、興行的にはスタジアムに多くの人には来てもらいたい。観客動員が低下している昨今では尚更である。そのためにはライト・ファンの来場も歓迎する。サッカーを文化にするためには、彼らの中から少しでも多くのコア・ファンを生み出すことも重要である。ならば、彼らに本当にサッカーそのものを楽しんでもらいたい。集まって騒ぐことを楽しむのではなく。


前から日本代表のゲームを見ていて気になることがある。一本調子でダラダラ続くチャント、相手へのブーイングの少なさ、そして殺気のなさ。浦和のゲームと比べてみればその温さは良くわかるだろう。私自身、これは、ひとえにスタンドにいても本当に闘っていないサポーターが存在しているからだと感じていた。たかがテレビのワンシーンにこれほど反応してしまうのも、私自身のそんなネガティブな思いが具現化されてしまったからかもしれない。本当に見たくないものを見てしまった。「絶対に負けられない・・・」とか騒いでいるTV局も、本当にそう思っているのなら、カメラマンもしっかり教育すべきだ。「場違いな映像は映すな!」と。


ウズベキスタン戦でも、何気なくスタジアムに来た人の中で、青く染まった満員の観客による地響きに似た応援と、照明に浮かび上がった鮮やかな緑のピッチで繰り広げられる男達の闘いに魅せられて、次のホーム戦も見に来たい、Jリーグにも行ってみようという人がいたはずである。あんなゲームでも、そう感じてくれた“青葉サポーター”が、1人でも多くいてくれたことを願って止まない。君達は熱く歓迎しよう。「ようこそFootballの世界へ」


魂のフーリガン