オレンジ色の波濤 | フーリガン通信

オレンジ色の波濤

それにしてもオランダは凄かった。EURO2008“死のグループC”のオープニング・マッチ、オランダ対イタリアでのことである。いくらカンナバーロがいなくても、2年前の世界王者、しかもその鉄壁の守備で知られる“アズーリ”(イタリア代表の愛称)を3-0。“オランイェ”(オランダ代表の愛称)の対イタリア戦の勝利は1978年のW杯以来30年ぶり、“アズーリ”が3点差をつけられて敗れるのは、何と1970年W杯決勝の対ブラジルでの1-4以来だという。歴史的な出来事だったのである。


ルート・ファン・ニステルローイの1点目は私もオフサイド・ポジションと思ったが、現在のルールでは、守備側は負傷で倒れていたとしても、とにかく最後尾にいる選手のいる場所に、オフサイドラインが引かれるという。それがたとえラインの外でも。つまり、ファン・ニステルローイがボールに触った時、その前のプレーでGKブッフォンと交錯したDFパヌッチが、エンド・ラインの外に倒れていたために、ニステルローイはどこにいても“オンサイド”ということになる。しかし、イタリア選手も猛抗議し、オランダの選手もしきりにラインズマンを気にしながらの歓喜であったところを見ると、闘っている選手達もよく知らないルールだったのだろう。


いくらルール上正当なゴールとはいえ、選手の一人が倒れている状態でのゴールであることには変わりがなく、もし1-0のまま終わっていれば、今度はピッチの外でキナ臭い騒ぎに発展した可能性が高い。恐らく私同様に、観客の多くは最新のルールに精通していないはずであり、イタリア人は“卑劣なゴール”に諦めがつかず、スタジアムの内外でフーリガン行為に及んでいたに違いない。しかし、オランダはその後に積み重ねた容赦ない2つのゴールでイタリア人を完全に沈黙させた。普通のゴールではない。選手が素早く、広く動き、ボールの軌跡はその頂点を止まることなく繋いでいった。スナイデルの電光石火のボレーも、ファン・ブロンクホルストの中央でのフリー・ヘッドも。全く無駄がなく、まるで相手がいないかのように。それだけ美しいゴールであった。


オランダの「ゴールの美しさ」の原点はやはり、名将リヌス・ミヘルス監督の下、70年代に栄華を誇ったアヤックス・アムステルダムと、そのメンバーを主体とした74年西ドイツ大会のオランダ代表である。ポジションがなく、全選手は渦巻のように入れ替わり、ピッチ全体を使って誰がどこからでも攻める、まるでバスケットボールのようなそのサッカーは“トータル・フットボール”と呼ばれ、誰もがそのサッカーに未来を予感した。そして、そのサッカーの中心には常に“空飛ぶオランダ人”こと、かのヨハン・クライフがいたのである。


当時のオランダのサッカーは確かにすばらしかった。アヤックスはクライフがいた1970 -71、71-72、72-73と欧州チャンピオンズ・カップで3連覇を果たし、オランダ代表は前述の74年W杯初出場で準優勝という成績を収めた。しかし、ミヘルスとクライフを失ったアヤックスは以降欧州王座を追われ、センセーショナルだった74年のオランダも、ギュンター・ネッツアーという創造主を手放し合理的な現実主義に染まっていた西ドイツに、ミュンヘンオリンピックスタジアムでの決勝で敗れた。クライフを除く準優勝メンバーが多く残ったオランダ代表は、78年アルゼンチン大会でも決勝まで進むが、この時のパワー頼みの現実的なサッカーは大変魅力に乏しいものだった。


しかし、クライフは、現役引退直後の1985年、アヤックスでテクニカル・ディレクターに就任する。引退直後は監督ライセンスを持っていなかったための肩書きであるが、実質3年間指導した中で、1987年には欧州カップ・ウィナーズ・カップ(欧州各国のカップ戦王者同士のカップ戦で、現存せず)を制している。また、「クライフ・アカデミー」と呼ばれたように、その間に次世代を担うフランク・ライカールト、デニス・ベルカンプ、そして現在のオランダ代表監督を率いるマルコ・ファン・バステンたちを育てたのである。後にライカールト、ファン・バステンに、ルート・フリット、ロナルド・クーマンといったクライフに憧れた世代の選手を揃えたオランダ代表は、ついに1988年の欧州選手権(当時はEUROと呼んでいなかったはず)で優勝を果たす。旧ソ連との決勝でファン・バステンが決めた、角度のない所からの右足ボレーは、今でもEURO史上最も美しいゴールと言われている。


しかし、現実は厳しい。ただ勝つのではなく、クライフの哲学である「美しく勝つ」ことに殉ずるフットボールは、「攻撃の美しさ」とともに「守備の粗さ」を併せ持つ。その証拠に、こと代表においては、W杯やEUROで常に優勝候補の一角として数えられ、実際にすばらしい攻撃サッカーを見せながらも、前述のEURO1988以外ではタイトルに見放されている。「美しいゴール」がオランダの伝統であれば、この「脆さ」と「運のなさ」もまた、オランダ代表の悲しい伝統なのである。いずれにしても、オランダ代表はどんな国際大会でもその強烈な攻撃サッカーのアイデンティティを放つ、特異な存在であることに間違いはない。たとえ最後は負けても、人々はオランダのゲームに足を運ぶ。クライフがピッチの上に撒いた、夢のフットボールを見に。


今大会、イタリア、フランス、ルーマニアと組むグループCは紛れもなく“死のグループ”である。そして、クライフが言うところの「負けないサッカー」を伝統とするイタリアは、その中でも最もタフな相手であったはずだ。そのイタリアを自慢の攻撃サッカー(カウンターの攻撃であっても)で切り裂いたオランダは、勝敗だけでなく得失点差の点でも大変有利なスタートを切った。あとは「美しく勝つ」サッカーが勝つのか、はたまたその裏にある「悲しい運命」に弄ばれるのか。今大会は、この“オレンジ軍団”から、ますます目が離せなくなったといえよう。


クライフはクラブで欧州の頂点には立ったが、代表ではタイトルとは無縁だった。一方ファン・バステンは全盛期のACミランで欧州の頂点に君臨しただけでなく、代表でもEURO88で欧州を制している。だからきっと、今のオランダ人は皆、ファン・バステン監督の“強運”に賭けているに違いない。しかし、そのファン・バステン自身も、クライフの後継者として誰もがその才能を認めながら、プレイヤーとしての円熟期の手前の28歳という若さで、ピッチを去らなければならなかった。記録上の実際の引退は30歳であるが、最後の2年間、彼が闘った相手は彼の持病となった足首の故障だった。


いやな予感は意外と当たるものである。こと、好調な時の“オランイェ”については・・・


魂のフーリガン