携帯電話は必要ない
 「携帯電話を持っていません」

 そういうと、ほとんどの方はとてもびっくりした顔をします。「へぇ……」と絶句したまま、まじまじと私の顔を見つめる方もいます。

 それくらい、現代の生活に「携帯電話を持つ」というのは当たり前のこととして浸透しているんですね。

 私も何を隠そう、制作関係の会社に勤めていた20代のころは持っていました、立派な携帯電話を。世の中に流通し始めたばかりのケータイの、大きくて重かったこと! その重さと、「いつでもつかまる」という束縛感が苦手でした。

 当初は仕事に必要だったので我慢して持ち歩いていましたが、すぐに手放しました。

 自宅で小説を書くのがメインの生活になってからは、固定電話とメール、ファクスだけですべての連絡を済ませています。

 家にほとんどいるのですから、これで十分、こと足りています。

 返信をそれほど急がない連絡はメールでいただきますし、急ぎの件であれば固定電話にかかってきます。出かけているときは、私は何らかの「外出の用事」をこなしているか、ひとりで歩きながら思索にふけりたいかのどちらかなので、電話は必要ないと割りきっています。

 緊急で電話をかけなければならないときには公衆電話を探したり、どうしても困ったら買い物先でお店の電話をお借りしたりしています。外で待ち合わせをするときには相手の連絡先をうかがっておいて、万が一お会いできないときは公衆電話から連絡します。



テレビのないリビング。仕事場でもあるので日常生活にメリハリを持たせる工夫をしたい

情報からあえて「離れる」決意 
 わざわざ説明していますが、こういう生活、ほんのひと昔前は普通だったのですよね。それがいつの間にか、携帯電話があっという間に普及するとともに、私たちの生活の基本形が一変してしまったのです。無意識のうちに。

 この「無意識のうちに」というのが、私が怖いなと思う点です。

 生き方や暮らし方は、本来は自分自身で選択していくもの。時代の流れや「みんながそうだから」という理由だけで決めたくない。そう思います。

 「いつでもつながる」という安心感は、一方で「甘え」にもつながるのではないかとも思います。

 携帯電話を持たずに外に出ると、地図の検索はできませんし、「ちょっと遅れます」という連絡も簡単にはできません。ある意味、緊張感が生まれるのです。だから、事前によく調べてから出かけるようになりますし、約束に遅れないように早めに家を出るようにもなります。

 こういう心構えみたいなものは、どんな環境でも生きる強さにつながるはず。できるだけ衰えさせたくないと思います。




 もうひとつ、私が携帯電話から積極的に距離を保つ理由は、その情報量の多さです。今の携帯電話は電話というより情報の玉手箱。歩きながら小さな画面を食い入るように見ている人をたくさん、街中で見かけます。でも、すぐそばにあるきれいな空や季節の花に気づかないなんて、もったいない。小さな画面から目を離すだけで、素敵な出合いがあるかもしれないのに。

 情報からあえて「離れる」という決意。リアルな世界を見る楽しみを満喫したいから、これからも私は「ケータイなし」の生き方を貫くだろうと思います。


「これだけで、幸せ 小川糸の少なく暮らす29ヵ条」より