ゆいモノレール県庁前駅から20分、首里駅に到着です。
今回は首里城周辺をフラフラしながら識名宮をめざします。
■首里城公園
首里駅から歩いていくと、国王頌徳碑が見えてきます。
ここから首里城公園に入ることができます。
公園内ではカンヒザクラが咲いていました。
訪問したのは2月ですが沖縄には春が来ていました。
首里城は琉球王国を統治した尚氏の王城で尚巴志が王家の居城と定めます。
琉球ははじめ3カ国にわかれており、第2代 尚巴志が1429年に統一します(第一尚氏)
第一尚氏は7代 63年続くのですが、最後の王である尚泰久王の死後、重臣の金丸がクーデターを起こして王位に就き尚円王を名乗ります。
これを第二尚氏といいます。
第二尚氏は19代 410年間続き、廃藩置県まで琉球を統治します。
修学旅行のシーズンなのか、制服を着た高校生らしきグループもちらほら。
沖縄戦で首里城は完全に破壊され、今の城壁はほぼすべて戦後に復元されたものです。
この場所では、破壊を免れた城壁が保存されています。
■守礼門
首里城のシンボル的な門で、二千円札のデザインにも採用されています。
冊封使を迎えるために作られたもので、扁額の「守禮之邦」は中華皇帝に対する礼を意味しています。
守礼門は沖縄戦で焼失し昭和33年に再建されます。
■園比屋武御嶽
王府の祈願所です。
神社の拝殿に当たるのが写真の石門で1519年、尚真王の時代に建立されています。
旧国宝に認定されていましたが、沖縄戦で大破し、1957年に復元されます。
■歓会門
琉球王府第一の門です。歓会とは冊封使を歓んで迎えるという意味です。
■瑞泉門
瑞泉とは、めでたい泉という意味です。
瑞泉門の近くには龍樋という湧水があります。
■龍樋
瑞泉門の言われとなった泉です。
かつては鉄砲水のように勢いよく水が噴き出していたと伝えられています。
水が出てくる龍の彫刻は1523年に琉球王の使いで中国に渡った役人が衝動買いした逸品と伝えられています。
龍樋は沖縄戦で奇跡的に破壊を免れたので首里城のパワースポットと呼ばれています。
■漏刻門
この門に漏刻が設置されていたため漏刻門と呼ばれます。
門の前には日時計も置かれており、2つの時計で時刻を測り知らせていました。
■首里城北殿
漏刻門は北殿に接しており、そこから北殿の焼け跡を見ることができます。
焼け跡の撤去作業が始まった頃なので、まだ焼け残った建物が生々しく残されていました。
福を行きわたらせるという意味の廣福門を抜けて奥に進みます。
■奉神門
首里城正殿に入る最後の門です。火災の影響で入ることはできませんでした。
門の隙間からは、燃え残った正殿前の龍柱が見えました。
■首里城南殿
奉神門を抜けると今度は、南殿の方向から正殿を見ることができました。
火災から4か月近くたつのに、かすかに焦げ臭い匂いがしてきました。
早く復興が進むことを祈ってしまいます。
首里城公園をフラフラ、、、
順路に従って首里城本殿の周りを歩いていくと、守礼門の近くまで戻ってきました。
首里城公園をもう少しフラフラします。
■弁天堂
円鑑池にあるお堂で、島にかかる橋を天女橋といいます。
元々は朝鮮王から贈られた方冊蔵経を納めていた場所でしたが、薩摩の琉球侵攻により、お堂と方冊蔵経は失われ、その後弁天堂として再建されます。
■円覚寺跡
円覚寺は琉球における臨済宗の総本山です。
第二尚氏の菩提寺でもあり、3代 尚真王が、初代 尚円王を祀るために創建されます。
庭は本堂前に池があります。
かかっている橋の匂欄羽目の彫刻は沖縄の石彫美術の最高傑作といわれています。
■沖縄師範学校跡
円覚寺の向かいにあります。沖縄師範学校の跡地に建てられた石碑と当時の門柱です。
門柱には沖縄戦の際の弾痕が残っています。
沖縄師範学校の女子部と沖縄県立第一高の教師と生徒で構成された部隊がひめゆり学徒隊になります。
■第32軍司令部壕
沖縄戦での日本軍の司令部が置かれた壕になります。全長1000メートルを越えるコンクリートで固められた巨大な壕で1000人を収容していたといわれています。
米軍の爆破による崩落が激しく、現在は入り口のみ見学することができます。
■龍潭池
尚巴志の命により1427年に作庭されたと伝わる人工の池です。
この池にはバリケンという謎の鳥が住み着いています。
龍潭池は池越しに首里城を綺麗に望める場所で、正殿の火災の時はここから撮影された映像がテレビで流れていました。
これから復興作業が本格化するとはいえ、痛々しい姿です。
首里城公園から指司笠樋川へ、、、
公園の外に出てきたので、周辺をフラフラしながら識名宮を目指します。
まず目指したのは、指司笠司樋川です、ここは王家の末裔にゆかりがある場所です。
カンヒザクラが咲いている住宅街の道を行きます。
■指司笠樋川
樋川は沖縄の共同井戸のことで、地域の人はここで飲料水をくんでいました。
指司笠樋川は尚家(琉球王の末裔)の敷地内にある格式の高い樋川です。旱魃でも枯れなかった井戸と伝わります。
拝所も設置されており、井戸を拝みに来る人もいるそうです。
拝所は神秘的な雰囲気で圧倒されます。
■玉陵
指司笠樋川をでて元来た道を戻りつつ、玉陵に向かいます。
歴代の琉球王の陵墓で世界遺産にも登録されています。
石室は中室、東室、西室に分けられています。
沖縄は風葬の風習があり、亡くなった後、遺骸が骨になるまで中室に数年間納められます。
その後、洗骨され王と王妃の遺骨は東室に、他の王族は西室に葬られます。
■金城町石畳道
玉陵をでて、金城町の石畳道に向かいます。
沖縄戦で多くが破壊されてしまいましたが、かつて琉球王国の主要な道は石畳で舗装されていました。
金城町には当時の石畳道が残っており、琉球王国の面影を残す場所として日本の道100選にもえらばれています。
石畳道を降りて行くと金城町の大アカギとの案内板があります。
その方向に進むと内金城御嶽につきます。
■内金城御嶽(金城町の大アカギ)
周辺の村人がここを通るたびに霊気を感じるということで、琉球王府に願い出て、拝所が設置されたと伝わります。
ここも先ほどの指司笠樋川と同じく圧倒される空気が流れています。
この御嶽の境内にあるのが金城町の大アカギと呼ばれる木で、推定樹齢は200年以上と言われています。
かつて首里城周辺はこのような大木がいくつもあり、昼でも薄暗かったと伝わっています。
沖縄は日陰がないと外を出歩けなくらい、夏の直射日光が強い場所です
■金城大樋川
内金城御嶽から石畳に戻っていくと、少し開けたところに出てきます。
ここに来ると首里が石畳の町だったと感じることができます。
そばにあるのが金城大樋川です。地域の人はここで飲料水をくんだり、洗濯をした場所だったそうです。
■真珠道(まだま道)金城町の石畳を降りてきたのですが今度は急な登り坂が続きます。
坂を登りきったところに平成30年の道路改良工事で発見された、当時の石畳が一部保存されています。
■繁多川
繁多川は地名の語源となった共同井戸です。
元々は端にある井泉という意味だったのですが、それが地域の名前になっています。
ここから住宅街を進むと大きな道に出ます。識名園まではあと少しといったところです。
■識名園
琉球王家最大の別邸で国王一家の保養や冊封使をもてなすための迎賓館として1799年に作られたものです。
園内は回遊式庭園となっており、沖縄風の東屋や、中国風の橋が配されていて、琉球独特の様式の庭園になっています。
識名園は沖縄戦で壊滅的な被害を受けたため、今の建物は復元されたものになります。
東屋ではちょうど結婚式が行われてました。
お祝いの三線の音が外まで聞こえてきて厳かな雰囲気が伝わってきます。
■識名宮
識名園から道沿いに坂を下っていくと目的地の識名宮に到着です。
小さな神社ですが参拝者は多めでした。
拝殿の中には御嶽の作法で祈る人もいました。
御祭神は熊野三神と牛ぬふぁ神、識名権現です。
牛ぬふぁ神は琉球の神様で丑の方角(南)の守り神から転じて丑年の干支の守り神になっています。(決して打ち間違いではないです
)
■狛犬
本殿はあまり見ないデザインのシーサーが守っています。
最後に。。。
神社の参拝も終えたので、首里駅に向かって歩いていると交通事故の現場に出くわしました。
事故を起こしたのは在日米軍の関係者のようです。
日米地位協定により、日本の警察は介入できないため、米軍の警察によって事情聴取が行われていました。
A.首里駅
B.国王頌徳碑(首里城公園入口)
C.守礼門(園比屋武御嶽)
D.歓会門
E.瑞泉門・龍樋
F.漏刻門・首里城北殿
G.円覚寺跡・沖縄師範学校碑
H.弁天堂
I.第32軍司令部壕
J.龍潭池
A.龍潭池
B.指司笠樋川
C.玉陵
入場料 300円
午前9時~午後6時(入場締切 午後5時30分)年中無休
所在地:那覇市金城町1-3
D.金城町石畳道
E.内金城御嶽(金城町の大アカギ)
所在地:沖縄県那覇市首里金城町3
F.真珠道
G.繁多川
所在地: 沖縄県那覇市繁多川2-36-1
H.識名園
入場料 400円
4月1日~9月30日 午前9時~午後6時(入場締め切り 午後5時30分)
10月1日~3月31日 午前9時~午後5時30(入場締め切り 午後5時)
所在地:沖縄県那覇市字真地421-7
I.識名宮
沖縄県那覇市繁多川4丁目1−43
※神職が常駐していないので御朱印は事前連絡が必要