タイムシフト終了間際に駆け込みで観ておきながらうとうとしてしまってあまり覚えていないのですが、途中のとしさんの話でちょっとした記憶がよみがえりました。


20年近く前だったか、聴いていた深夜ラジオでのパーソナリティーのおしゃべり。

「このあいだ『アイドルグループの〇〇の中で一人、可愛くない子がいる』と言ったら、そのファンから『Aちゃんの悪口はやめろ』とはがきが来たけど、おれは誰のことだとも明言していないよ笑」…という、とてもツマラナイ記憶が笑。

ファンと名乗り味方の顔をしておきながらAちゃんのことを背後から撃ってることに、はがきを書いてきたあなたたちは気付いていなんですか?と暗に言われているようで、当時ゾクッとした瞬間でもありました。


そもそもそんなことをわざわざ電波にのせて発言しないでよとも思いますが、深夜ラジオのパーソナリティーには偽悪ぶって過激な発言をする人も多いので。



結局。
だれかの発言や表現によって、受け取り手の内側が照らされたり晒されるだけなのだなぁと思いました。

だからとしさんの「叫」によっても、案外多くの人の心の内側が、暴かれたのではないでしょうか。

 

私の一番好きなもの・こと、苦手なもの・こと。


ファンと名乗りながら、その対象を背中から撃ってる人の存在なども。


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前述のラジオパーソナリティーは仕事柄なのか元々の性格なのか、伝えたいことに関してはかなりの熱意を以て表現する人です。
近年は他のラジオやテレビ番組、芸人さんのYouTube、自身の配信番組など、語る時間や場所、媒体を変え、TPOに合わせながら、とにかく言葉を尽くして語ってくれる人だと私は感じます。

それぞれの発言を厳密に比較したことはないけれど、比較したら多少の齟齬はあるでしょう。でも、それらを総合的に受け取ることで、あぁこういうことなのかなと、こちらは勝手に受け取っています。勝手に。


そんな言葉の使い手である某氏に比べたら、

としさんが自らについて語ることは多くなく、

ラジオブースのマイクを前に想いを語り尽くそうと並べられる言葉や、商品(作品とはいいたくない笑)そのものである彼のトークに比べたら、

としさんの歌も、絵も、余白が大きい。



この余白や行間、含みの多さをどう受け取るか。
それが表現のスタイルだ、こだわりだ、美学なのだと解釈する事も出来ます。

余白を以てしか語れないことがあるなら。
それは他人に容易に触れられない、苦しい体験ゆえのことかもしれないし、明言を避けることで直接攻撃されないようにしているのかもしれません。冒頭に述べたラジオパーソナリティーのように。
細々と blog を書いている私でさえ、ない知恵を使って言葉に気をつけているですから、大メディアに晒される人たちが気を配るのは当然のことです。

だからここまでは一般的なことだとして。



作品の余白は、受け取り手を信じてくれているのもあるよねと心のどこかで思っていましたし、絵画展直後のニコ生に寄せられるおたよりに対し、としさんも好意的で楽しんでくださっていたと記憶しています。

でも隅々まで埋めきれない理由のひとつが、もしかして受け取り手の側にあるのかもしれないぞ、という思いも、ふつふつ湧いてきてしまいました。


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私の思う「叫」という曲は、としさんの通過点です。
今後さらに達成していく予定のワクワクへと向かう、通過点。

リアルラブの世界線で生きるための、通過点、そのための叫び。

としさんはもう、すっかり先に行っているんだと感じました。

としさんという快速電車が通過した際に巻き起こした風を浴びて、ファンと呼ばれる人が喧々諤々のようですが…もうその電車、先に行っちゃってますよ…という感覚になりました。

ショックを受ける、ということはショックを受けた側に何かしらの願いや希望があるということで。
こちらの願いや希望と、としさんの余白から感じることのあいだに相違があるからショックなんだろうなと思います。



としさんの余白、通過していく姿というのは、
たぶん、そうせざるを得なくて生まれたもののように思います。

全てのファンをまるごと、各駅停車して乗せてあげたかっただろうけれど、ある時からそれができないと思われたのではないでしょうか。
それは本当に、複雑に絡み合った理由や事情で。

余白を作らざるを得なかった。それは、全てを言葉で語れないから…エトセトラ。
通過せざるを得なかった。それは、残された時間が限られているから…エトセトラエトセトラ…


そしてさらに
乗せてもらえる(すでに乗れている)と思っていた電車が、「叫」という駅でワタシを乗せていかなかった。通過していった。振り落としていった(これはインドの激混み列車のイメージ)。
だからワタシはショックだ、悲しい。
そんな感じの御方がいらっしゃったのかなという印象です。

寝ぼけながらニコ生のコメントを見ていた限りですが…。


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としさんと出逢う前に経験したことによって、私はアーティストへ自分の期待をのせることを極端にしなくなりました。


先の譬えでいうなら、ずっと乗っていたいと思っていた電車に置いて行かれたのでした。
その時は残念だったけれど、お相手にはお相手の奏でたい音楽、きわめたいパフォーマンス、やりたいことがあるのだとわかったとき、ここに気持ちがない人たちの表現を受け取ることは幸せではないと気付きました。現にそういう表現も観てきました。だからもうこれで充分でしたとピリオドを打ちました。たまたま重なり合った時間がたまたま心地よかったのだったと思って、ありがとうで締めました。
来ない電車を駅でひとり待つことはもう、ありません。想い出を反芻していくだけです。
 

 

 

 

 

 

 


自分の期待を相手に乗せる。
ファンの期待や夢や願いと一緒に進んでいくアーティストって、眩しいです。アーティスト側もきっと、ファンからの期待や願いが推進力になるはずです。

でもアーティストとファンは同格ではない。奏でるあなたがいてくれるから聴く私がいるという順序が基本なのではないかな…。



ここまで書いたことも、そしてこれ以降書くことも私がそう感じただけ、ですけれども。
(これも予防線。てへぺろ。)


ファンだからこその強すぎる期待を乗せられたアーティストによる、ファンへの精一杯の配慮が、私の感じたあの余白なのではないかなぁという妄想が止みません。

トシラブという方々に対しても、バンドもソロも好きという方々に対しても、バンドのトシが好きという方々にも、分け隔てなく 慮る ための、余白。

どう思うのもあなた方のご自由ですという雰囲気に、積年のうんざりフレーバーも感じますけどね。


でもそうした人たちの鋭角の感情むきだしの言葉がとしさんのSNSにも流れて行ったのかなぁ、それでもとしさんは「大丈夫だよ」と笑ってくれているのかなぁ?…と思うと。

 


その「大丈夫だよ」も結局、むりやり言わせてしまっているのかな? という気がして。

表現によって言葉にならないものを昇華し、あらゆる経験を(時には半ば強引に?)糧にして、通過点として前進するとしさんに、何度も、過ぎた駅を振りかえらせて心配してもらってる感じがして。

それは、一緒に歩もうととしさんが言ってくれたファンの在り方と、同じなのかな…とわからなくなったのでした。



大方のファンの期待や願いから外れた事態になったとき、
メンタルの牢固さと自浄能力の高さに優れたアーティストご本人に、いつも護ってもらう。慰めてもらう。
近年としさんの事を知った私でさえ、こういうやりとりを何回か見た気がします。

 


ファンにとっては有難すぎて甘えてしまいがちな状況なのかなと、うすぼんやりと思います。

 

 


もしそれがこの界隈でいう「ファン」とか「トシラブ」とやらだとするなら、わたしはファンにもトシラブにも足らない残念な人間だわぁ~と思ったり、
それは事実としても、誠実なリスナーでは在りたいなぁと思う夜でもあり…
誠実ってなんなのよという夜でもあり…



おやすみなさい歩く