三浦春馬の夢を叶えなかった日本のエンターテイメント界
唯一無二の表現者が世界に出ていたら……
三浦春馬という才能を大事にしない国――主演作『天外者』公開に寄せて
前稿では俳優・三浦春馬に押し付けられた「イケメン」イメージへの違和感について触れた。彼の才能はその道のプロが高く評価していたし、近い将来には「イケメン」と括ること自体が失礼だと、多くの人が察知できるくらいの大きな存在になれるはずだったと書いた。本稿では仕事熱心で本物志向の三浦とは、きっと肌が合わなかったであろう日本のエンターテイメント界について考えてみたい。
働かせ過ぎでは……
10代から主役を多く務め、“早咲き俳優”だった三浦。本人は挑戦しがいのある作品で最高のパフォーマンスを届けたい、と熱心に仕事に取り組んでいた。インタビューなど数多くの発言を読む限り、彼に健全な向上心はあっても、歪んだ功名心とは無縁だったと思う。
メジャーシーンにいながら自分の志向に合った仕事の質を重視する俳優は、日本ではそれほどありがたがられないのかもしれない。とりわけ大きな芸能事務所の場合、売り上げ第一の働かせ方を優先することはあり得るだろう。ビジネスである以上、ある意味それは当然のことだ。しかし三浦の場合、すでに芸暦の長い彼の意向を最大限に尊重し、才能を全面的にサポートする体制にどこまでなっていたのか気にかかる。
亡くなる直前まで撮影を続けたドラマ『おカネの切れ目が恋のはじまり』(2020、TBS系)は、本人が本気で希望した作品とは私には思えなかった。人相も変わるほど激やせした彼が「清貧女子」と「浪費男子」のラブコメに出演していたことに違和感があった。また、彼が亡くなった後の放映で、首吊り骸骨人形が彼の部屋に残されていたという演出にも、番組で流れた「春馬くん ずっと大好きだよ」などと30歳の男性に“くん”付けをする、あまりに軽い追悼テロップにも、個人的には大変ショックを受けた(このドラマが好きな人には申し訳ないが)。
たび重なるヘビーな役柄(狂気に触れる殺人者、冤罪を着せられた男、特攻隊として散る男、焼身自殺する男)や、膨大な仕事量も疑問だ。インタビューで三浦は「人としても俳優としても『進化したね』とか『成長したね』って言ってもらえるような、いい仕事をしていきたい」と前向きな抱負を語りながらも、「プライベートは…(マネジャーをチラッと見て)ありませんね。2019年の僕にプライベートはありません(笑)」「いや、休みはもらえるなら欲しいです(笑)。時間があったらこれをやりたいっていうのもたくさんあるし。例えば、サーフィン、スキューバダイビング、バイクの免許、船舶免許…。結構幅広いことに興味があるんですよ」と答えている(2018年12月22日、WEBザテレビジョン)。
彼ほど実績がある事務所の功労者でも、休みが取りにくい状況だったのが伺える。日本ではアイドルなどが休みがなくて大変という話は昔からよく聞く。業界全体で労働条件の見直しが必要だろう。フランスでは職種を問わずバカンスをしっかり取るのは当然の権利。芸能人であろうとそれは同様で、過労問題など聞いたことがない。
言いたいことが言いにくい日本の芸能人
日本は俳優に対する評価軸も怪しいと感じる。演技力より、出演するCMの量や好感度の高い人気者であることのほうが重要視されているかのようだ。だから不倫や不祥事などもってのほか。人気俳優を起用すればSNSで勝手に告知してもらえるから、宣伝の手間も省ける。だが思い起こせば、勝新太郎や松田優作ら昭和の俳優は好感度など気にも留めていなかったはず。スケール感の溢れる俳優が少なくなるのは当然だろう。
CM問題は根が深い。日本ではあらゆる商品と芸能人が隅々まで紐付けされている。そんな国は世界でも珍しい。「代表作はCM」という俳優も思い浮かぶ。
筆者の住む国の例ばかりで恐縮だが、フランスでは俳優が広告塔になることはほぼない。俳優は映画や舞台、ドラマの仕事に集中していればよく、その演技でしっかり評価される。広告に出るとすれば、せいぜいハイブランドの期間限定アンバサダー的な仕事だろう。お菓子や風邪薬の広告に担ぎ出されるというのは見たことがない。
CMは大金が動くし認知度を上げるから、事務所にも芸能人にも「おいしい」仕事なのかもしれない。しかし、その代償は大きいのではないか。例えば、スポンサーの目が、芸能人にとっての“猿ぐつわ”となり、芸能人が言いたいことも言えず萎縮してしまうことはないか。
フランスの俳優は俳優である前にいち市民であり、人格を持った人間として振る舞っていると思う。政治的な発言をしても「芸能人のくせに黙ってろ」などとネットで叩かれることは絶対ない。いま日本で公開中の映画『燃ゆる女の肖像』の女優アデル・エネルは♯Me Too運動、オスカー女優のマリオン・コティヤールはエコロジストの旗手だし、カンヌ国際映画祭で主演男優賞を獲得したヴァンサン・ランドンはコロナ禍の政府対応を批判し賞賛された。これらはよくある普通の話に過ぎない。
2020年1月28日、三浦はツイッター上で少々意味深な投稿をした。
「明るみになる事が清いのか、明るみにならない事が清いのか…どの業界、職種でも、叩くだけ叩き、本人達の気力を奪っていく。皆んなが間違いを犯さない訳じゃないと思う。国力を高めるために、少しだけ戒める為に憤りだけじゃなく、立ち直る言葉を国民全員で紡ぎ出せないのか…」(三浦春馬 & STAFF INFO、原文ママ)
聡明な彼なりに覚悟を決め、丁寧に紡いだ言葉だと思う。しかし、こんなオブラートに包んだ発言にも批判が飛んだというから、日本に本来の「言論の自由」が残っているのか心配になる。
実力で闘える舞台
作品の作り方の話をしたい。日本のドラマは登場人物を「〇〇女子」「〇〇男子」などとすぐにキャラ化したがる。まるで広告会社がマーケティングの観点から思いついたような設定だ。
そして映画製作はテレビ局主導の製作委員会方式が多い。人気ドラマが映画化されると、テレビ的な世界観が映画に流れ込む。俳優はキャラという虚構を演じるので、学芸会的な嘘っぽい演技に近づくのかもしれない。
このような状況で本物志向の俳優が演技を追究したり、人間の本質を掘り下げ、それを表現する力を磨いていく機会はなかなか得られないだろう。
だから、三浦が舞台の世界に入り込んでいったのはわかる気がする。元来の舞台好きに加え、出演作をみると、本物志向の彼が挑戦しがいのある企画が多かったように思う。舞台にはごまかしが効かないという厳しさはあるが、たしかな手応えを感じられる場所として、彼のように努力できる実力者には闘いやすかっただろう。
一方で彼はインタビューの中で「日本ではまだ、舞台に著名人を観にくる感覚の人も多いと思うんです。だからこそ、映像の仕事も頑張っていかないといけないと思っていて。舞台やミュージカルという産業をもっと身近に感じていただくための、一つの歯車に僕がなっていけたら」と語っている(2020年1月5日、CREA)。
現実を客観視し、「産業」全体も見据えながら映像の仕事も前向きにこなしていたのだ。
本物を味わい分かち合う
三浦は海外で活躍する将来を夢見て、歌やダンス、殺陣や英会話などを一流講師について寸暇を惜しんで学んでいた。現代劇から時代劇、ミュージカルとあらゆる境界を自在に行き来できるのは彼の強み。華のある三浦の肉体と表現を介せば、作品は感動と迫力を伴い、一層魅力的に立ち上がる。『キンキーブーツ』(2016年、2019年)の妖艶でパワフルなドラァグクイーンのローラ役で、日本にミュージカル文化の魅力を広く知らしめたように。
近年、彼は持ち前の知性と感性で新しい仕事にも力を注いだ。47都道府県の伝統文化や歴史、産業を取材しベストセラーとなった著書『日本製』は経済学者からも評価された。一流バイヤーの仕事と商品を紹介したNHK「世界はほしいモノにあふれてる~旅するバイヤー極上リスト~」(2018年~)とともに、文化の水先案内人的役割を果たすのは、オープンマインドで上質な本物を味わい、感動を分かち合える彼の資質にぴったりだったろう。
「世界はほしいモノにあふれてる」で、フラメンコを生で見た三浦のコメントは素晴らしい。「ギターと肉体とドレスだけで、女性の半生を見たようなそんな感動があったんですね」。こんなことがさらっと言える感受性豊かな青年が三浦春馬である。
感動の追悼は海外から
彼は20歳を過ぎた頃から長期留学を望んでいたが、実現しかけたのは2017年のこと。英国ロンドンに語学留学を果たしたが、半年の予定が諸事情で2カ月になった。海外志向を公言していた彼には、もっと自由に外の世界を見てほしかった。もしも望みが叶い海外に挑戦できていたなら、人懐っこく努力家の彼のこと、周りからすぐに引き立てられたはず。それを証明するような映像がある。
この10月末に『キンキーブーツ』のパフォーマンスを収録した約22分の追悼映像「Kinky Boots Haruma Miura Tribute movie」が公開された。この中には三浦と仕事をした一流外国人スタッフから、敬愛の念が存分に詰まった追悼メッセージが挿入されている。
三浦春馬出演ミュージカル『キンキーブーツ』のパフォーマンスを盛り込んだ特別映像「Kinky Boots Haruma Miura Tribute movie」より https://www.youtube.com/watch?v=SOK7Ql6x5zM
「人生の時間は誰しも限られていますが、その時間の使い方が重要なのです。春馬を私と同じように愛してくれたすべての友人や家族、ファンに私の祈りと愛をお届けします。『キンキーブーツ 』での彼は圧巻でした。彼を知り共に仕事ができたのは私の喜びです」(演出・振付/ジェリー・ミッチェル)
「振付家として彼と働けて、ゾクゾクするほど嬉しかったです。/永遠に春馬は私の友達です。私の心には彼への愛しかありません」(アソシエイト・コレオグラファー/ラスティ・モーワリー)
「振付家として彼と働けて、ゾクゾクするほど嬉しかったです。/永遠に春馬は私の友達です。私の心には彼への愛しかありません」(アソシエイト・コレオグラファー/ラスティ・モーワリー)
彼らの追悼メッセージは大変心温まるもので、いかに三浦が尊敬され愛されていたかが伺える。それに引きかえ日本は、ひっそり、だんまり、宣伝絡み……追悼の態度に落差を感じて寂しい。
情報開示と問題の再検証を
三浦は将来を見据え行動し、ゆくゆくは後輩育成にも携わりたいと口にしていた。もしも彼が周囲の協力を得て、本場ブロードウェイやウエスト・エンドで活躍できていたなら、後々は日本のエンターテイメントの底上げに必ずや繋がったはずだ。また、日本の伝統文化に精通し、上品で所作も美しい三浦は、自身で和の美を体現しながら文化の架け橋にもなれただろう。
思えば、彼が映画『天外者』(てんがらもん)で演じた五代友厚は、支援者を得て薩摩藩遣英使節団として欧州を視察、その経験を糧に近代産業の礎を築き上げた。約150年前の話だ。現在の日本は幕末期からあらためて学ばなければいけないのかもしれない。
つまり、日本のエンタメ界は目先の利益を中心に考え、芸能人たちを世界に羽ばたかせてスケールの大きなエンターテイナーに育てようとしていないのではないか。韓国のBTSのような世界的アーティストが日本からなかなか輩出されないのもそこに原因のひとつがある気がする。そもそもエンターテイメントとは見る人に夢を与えるもののはず。三浦ほど魅力的で唯一無二の表現者を活かせぬ日本のエンターテイメントに、これからどうやって夢を感じられるだろう。
映画『天外者』の中で、“三浦/五代”が発した力強い言葉の数々を思い出してしまうのだ。
「私は夢のある未来がほしいだけだ!」
「俺に学ばせるということは、この日本が一日早く進歩するということだ!」
「俺に学ばせるということは、この日本が一日早く進歩するということだ!」
最後に。夢に向かってひた走り、入魂の新作映画の完成と待望のミュージカルの仕事を控えた俳優が、なぜ命を絶つ状況に陥ったのか、私はいまだに不条理を感じている。
報道によれば、前日までしっかり仕事をこなしていたというのだから、うつ病説も怪しいと思っている(ここは専門家の意見を聞きたい)。作品や自らの言葉を通し、一貫して命の大切さを訴え続けてきた人でもある。当初、遺書が残されていたとしたり、親子関係や本人の性格を死の要因に結び付けるなど何らかの「結論」に誘導するかのような報道への不信感が拭えないままでいる。
彼が亡くなって半年近くが経ちながらも、いまだにファンは混乱している。「プライベートはない」と語っていた俳優の死に対して、所属事務所は、例えば、直近までの彼の振る舞いや発言の変化、当日の予定と事務所の対応などについて、さらに詳細で正確な情報(もちろん私生活の暴露などではなく)を開示し、死の原因を再検証する責任があるのでは。三浦の名誉が守られることを心より願っている。